た花なのだ。

        二

 言ひ伝へによると、侘助椿は加藤|肥後守《ひごのかみ》が朝鮮から持ち帰つて、大阪城内に移し植ゑたものださうだ。肥後守は侘助椿のほかにも、肩の羽の真つ白な鵲《かささぎ》や、虎の毛皮や、いろんな珍しい物をあちらから持ち帰つたやうに噂《うはさ》せられてゐる。現に京都|清水《きよみづ》の成就院では、石榴《ざくろ》のそれのやうな紅い小さな花をもつた椿を「本侘」と名づけて、肥後守が朝鮮から持ち帰つたのは、自分の境内にある老樹だと言つてゐる。実際世間といふものはいい加減なもので、肥後守が腕つ節の人一倍すぐれて強かつた人だけに、荷嵩《にかさ》になりさうな物だつたり、由緒がはつきり判《わか》りかねる品だつたら、その渡来の時日がぴつたり註文に合はうが、合ふまいが、そんなことには一向頓着なく、何もかもこの強者《つはもの》の肩に背負はすつもりで、
「はて、こいつも肥後守ぢや」
「ほい、お次もさうぢや」
といつたふうに、みんな清正の荒くれだつた手がかかつてゐたことに決めてゐるらしい。

        三

 この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏
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