ます。氏の短い一生は、いろんな意味で感慨の深いものがありますから。
 平尾氏が早稲田の文科を卒業後、初めて見つけた勤め口は、大阪の造士新聞といふ小《ち》つぽけな週刊新聞でした。造士新聞は今は大阪のある郊外電鉄の専務取締、その当時は弁護士の紀志嘉実氏が、貧しい青年学生を収容するために設けた造士寮の機関新聞でしたが、平尾氏は編輯するやうになつてからは、際だつて文藝の色が鮮やかに見られるやうになりました。
 その造士寮には、今中山文化研究所で花形のS医学博士なども、大阪医専の学生としてゐられたやうでした。女学生も三人ばかしゐましたが、そのなかのOさんといふのに、平尾氏が恋をしました。Oさんは金沢在の生れで、朝鮮にもゐたといふことでしたが、いかにも雪国の生れを思はせるやうな、しつかりした、理智の勝つた、主我的で打算的なところの見える婦人でした。その頃Oさんは梅花女学校に通つてゐました。キリスト信者の多いあの学校のなかで、平気で自分の机に小さな仏壇を入れて、仏様を祠《まつ》つてゐたといへば、その気性のほども大抵察しられるだらうと思ひます。
 Oさんは、打ち明けられた平尾氏の恋を聞くと、苦しさうに
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