まいものでもない」
かう思つた持主は、その肩衝を持参して、訳を話して以前の持主に返さうとしました。以前の持主は強くかぶりをふつて、
「うち砕いて土に戻した雲山に、まためぐりあはふなどとは思ひもかけませぬことぢやて」
といつて、てんで相手にもしなかつたさうです。
四
「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
この評判は器の値打をだんだんとせり上げました。疵入の雲山は数寄者から富豪へ、富豪から大名へと、次々に譲渡されて、最後にすばらしい値打と評判とをもつて、ある東国の大名の手に納まりました。
それを聞きつけたのが、その頃丹後宮津の城主であつた京極安知でした。安知は茶器のためだつたら自分の家来はいふまでもないこと、ただひとつしか持つてゐなかつた小さな魂をも売るのを厭はないといつた性《たち》の大名でした。
「雲山が所持したい。あれさへ所持できたなら、茶入の望みは生涯またと持つまいに」
安知はかう言つて、しみじみと歎きました。そして病気にさへなりました。その容態を看るべく京極家に迎へられた某といふ医者は、安知の病気が自分の持ち合せの医薬では、とても治らないことを見てとりました。そして別の医療法をとることに決めました。別の医療法といふのは、
「欲しがるものは与へる」
といふことでした。医者は雲山肩衝の今の持主である東国の大名にも出入りを許されてゐましたから、早速その旨を通じました。
「京極侯には、雲山を所望して病気にまで罹《かか》られたとか。それはお気の毒なことぢや。さやうに所望せらるれば遣《つか》はさないものでもないが、あれは利休も結構至極と賞めた当家秘蔵の品ぢやによつて、金二駄を少しでも欠いでは………」
その大名はかう言つて笑ひました。この人は京極安知よりも、人間が少し賢く生れてゐましたから、頭から拒《は》ねつけないで、金二駄ならば相談に乗つてもいいと答へたのです。金二駄と言へば一万二千両ですから、小藩の京極家では指をくはへて引つ込むよりほかには仕方があるまいといふ腹なのでした。しかし、ものに溺れやすい安知には、そんな銭勘定を飛び越すくらゐは何でもなかつたのです。医者から事情を聞いた彼は、
「利休の賞め立てた品ぢや。金二駄は安からうて」
といつて喜びました。案に相違したのは東国の大名です。この場合唯一の方法は、
「あれは戯談《じようだん》ぢや」
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