。
「あなたは山に籠つてから、めつたに外へ出られぬやうだが、山では何をめし上つてゐられますな。」
「さよう。山での食物なら、先づ赤米、白塩、緑葵、紫蓼――といつたやうなところで……」
隠遁者が色づくしの美い名前を数へ立てると、それを傍で聞いてゐたある人が、横から口を出し、
「山では蔬菜ばかしをめしあがつてゐるらしいが、そのなかで何が一番お口に合ひましたな。」
鍾山の隠者は、自分の好物を訊かれたをりに、子供がして見せるやうなはにかんだ表情をした。
「春初の早韮と、秋末の晩菘と――私の好きなのは、この二つです。」
韮のうまさは、この山中の人がいつたやうに、実際春先に土を破つて出る若芽にかぎるもののやうだ。その舌触りの滑かさにおいて、味の甘さにおいて、またこの葷菜のみが持つ腋香のやうな体臭においてさへも、春先のものは、他の季節のそれに比べると、まるで別物のやうな風味の濃かさを感じさせてくれる。
三
詩人杜甫が、ある秋の日友人阮※[#「日+方」、第3水準1−85−13]から韮三十束を贈られたことがあつた。彼はその作物のなかで、
「韮の束は刈り立ての青葉のやうに新鮮で、
その根の円つこさは、玉の箸のやうだ。
私は老いて身うちが冷えるが、これさへあつたら健かでゐられよう。」
と、いつて喜んでゐるが、その季節が秋だつたのからして察すると、蔬菜は旬《しゆん》はづれで、春のものに比べて、食べ劣りがしたに相違ない。そんなことを思ふと、このか弱い、吹けば飛びそうな小菜のひとつびとつに、生命の蘇りとともに滋味を与へることを忘れなかつた「春」の心遣ひがしみじみと感じられないではゐられない。
ただ不思議でならないのは、私がこの葷菜を初めて口にしたころは、その臭みが鼻について仕方がなかつたものだが、とかくして食べ馴れてゐるうちに、いつのまにかその臭みが苦にならないのみか、どうかするとなつかしまれ出してさへも来たといふことだ。聞くところによると、マレエ半島産のヅリアンといふ果実は、味にかけてはすばらしく甘いが、そのいやな臭みがとてもたまらないので、大抵の人はしりごみをするさうだが、辛抱して食べ馴れてゐるうちに、その悪臭までもが、なくてならないもののやうになつて来るといふことだ。――物に馴れるといふことは、そんなものかも知れない。
底本:「日本の名随筆59 菜」作品
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