「亭主。亭主。無理なことを申すやうだが、この小壺な、これを拙者に譲つてはくれまいか」
 喜平は薄暗い流し元に向つて呼びかけました。爺さんはのつそりと出てきました。
「小壺とおつしやるのは、熬し入れのことでございますか。はい、はい。承知いたしましたとも。お望みなら譲つて進ぜませう」
「譲つてくれるか。それは有難い。幾らにしてくれるな」
「こんながらくたをお譲りいたしたからといつて、別にお鳥目をいただくやうな親爺ぢやございません」
 爺さんは飼猫の背を撫でながら言ひました。
「ぢやと申して、他人の持物を所望しておきながら、その代を払はぬといふ法はあるまいて」
 喜平は笑ひながら爺さんの顔を見ました。爺さんは猫を自分の膝に抱き取りました。
「旦那様が御所望でございましたから、お譲り申したまでのこと、なんぼ売代をやらうとおつしやつたところで、商ひにせぬ品物には、売値のつけやうがございませぬ」
「強情な親爺だな」喜平の声はいくらか高調子になりました。「商ひにせぬ品物に売値はないといふのか。そんなら、たつて買はうとは言ふまい。その代り俺の持物と取り替へつこをするから」
 喜平はかう言つて、腰に下げた胴乱をそこに投げ出しました。胴乱は鼠のやうな恰好をして、爺さんの膝元に転がりました。
「こんなものは要りませぬ」茶店の爺さんは胴乱を投げ返しました。痰《たん》持と見えて、息がはずむたびに鶏のやうに顔を真つ赤にして咳き込みました。「こんなものをいただいては、せつかくお譲り申さうとした親爺の一|分《ぶん》が立ちませぬ」
「いや、渡す。俺の面目にかけてもきつと渡してみせる」
 二人は声をはげまして、負けず劣らず互ひに胴乱を投げ返しました。胴乱の中では散銭が苦しさうに泣き声を立てました。
 先刻から爺さんの膝でころころと咽喉を鳴らしてゐた猫は、びつくりして飛び上りざま流し元の方へ逃げてゆきました。
「これ、これ。親爺どの。止しにさつしやれ。お客様との喧嘩は見つともなからうぜ」
 だしぬけに陽気な笑ひ声が二人の背後から落ちてきました。喜平と爺さんとはびつくりして振りかへりました。そこに突つ立つてゐたのは、旅商人らしい一人の男で、三日にあげず、彦山から槻の木へ通つてゐるので、茶店の爺さんとは見知り越しの仲でした。
 その男は軒さきに荷物を下ろして、ちよつと喜平に会釈しながら、自分はずつと内に入つて、亭主の爺さんと肩を並べて上り框に腰を下ろしました。そして煙草入れを取り出して、一服吸ひつけながら、いくらか照れ気味である二人の顔を見較べました。
「親爺どの。これはまたどうしたといふことだ」
 茶店の爺さんは、喧嘩のいきさつを詳しく話しました。喜平はまたそれにつけ加へて言ひました。
「もともとこの小壺は、初めに拙者のはうから譲つてくれと切り出したことでもあるし、それにこれから長く自分の持物とするには、相当な価を払つた上でないと、気持が悪いしするから、ぜひ取つてくれといふのだが、……」
「いや、御趣意はよくわかりました」旅商人は大きく頷いて見せました。そして自分もこの場に来合せたからには、黙つてそのままには見過されまいと言つて、あらためて仲裁の口をききました。喜平と茶店の爺さんは、異議なくそれを承知しました。
「お客様がただ貰つたのでは、自分のもののやうな気がしないとおつしやるのだから、この小壺を末長く御自分のものにして持つていただくには、親爺どの、お前も我を折つてこれをお受けするがいいぢやないか」
といつて、旅商人は破けた古畳の上に転がつてゐた胴乱をとつて、爺さんの膝に置きました。爺さんはちよつと気むづかしい顔をしましたが、それでも別に押し返さうともしませんでした。

 喜平は、小壺を抱いて外に出ました。高い樹の梢で初蝉が一つ鳴いてゐました。

        二

 喜平は、薬師峠の一軒茶屋で手に入れた小壺を、主人松井佐渡守の手もとまで差し出しました。

 松井佐渡守といへば、細川家の家来のなかでは、聞えた世間知りの老巧者でした。豊臣秀次の没落当時、この関白から内々で金を借りてゐた大名方のうちには、その証文を奉行の石田三成に押へられて、大弱りに弱らされてゐた者も少なくありませんでした。早速返済しなかつたら、その証文は太閤の前に差し出されるかも知れない。万一そんなことにでもなつたら、家の破滅はきまつてゐることでしたから。
 細川忠興もまた借手の一人でした。借りた金高は百両でしたが、早速の場合、百両の調達はなかなか容易ではなかつたので、忠興もさすがに弱りきつてゐました。
 主人の難儀を見てとつた佐渡守は、かねて好誼の深い徳川家の本多正信を訪ねて、金子《きんす》の借用方を申し込みました。正信はそのことを主人家康の耳に入れました。二人は家康の前に通されました。佐渡守
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