小壺狩
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)槻《つき》の木《き》へ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)細川|忠興《ただおき》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]〔昭和2年刊『猫の微笑』〕
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一
彦山村から槻《つき》の木《き》へ抜ける薬師峠の山路に沿うて、古ぼけた一軒茶屋が立つてゐます。その店さきに腰を下ろして休んでゐるのは、松井佐渡守の仲間《ちゆうげん》喜平でした。松井佐渡守といふのは、当国小倉の城主細川|忠興《ただおき》の老臣として聞えた人でした。
晴れた初夏の昼過ぎて、新鮮な若葉の山は、明るい日光をうけて陽気に笑つてゐました。先刻から軒さきに突つ立つた高い木の枝にとまつて、鈴を振るやうな美い声で、ちんからころりと鳴いてゐた小鳥が、どこへともなく去つてしまつた後は、あたりはひつそりとして乾いた山路に落ちかかつたそこらの立樹の影が、地べたを這ふ音さへ聞かれさうな日でした。昼の仕度をすませた喜平は、何だかまだ物足りなささうな様子で、貧しい茶屋の店さきに渇いた眼をやりました。
「亭主、麦熬《むぎこが》しでもできるかい」
「はい、出来立ての熬しがございます。一服立てて進ぜませうか」
「さうか。では早速頼む」
「承知いたしました」
茶店の爺さんは、やつとこなと上《あが》り框《かまち》から腰を持ち上げました。そして埃だらけの棚から、小出しに粉を入れておくらしい小さな瀬戸焼の壺を取りおろすと、ぶきつちよな手つきで、そのなかから茶碗へと粉を移し取りました。
立てられた麦熬しの茶碗を手に取ると、喜平はまづそれを鼻さきに持つてゆきました。香ばしい新麦のにほひは眼にも泌むやうでした。喜平は子供の頃から出来立ての熬しのにほひを嗅ぐのが何よりも好きでした。夏が来るといつもそれを思ひ出しました。
茶碗に箸をつけた喜平は、その塩加減がひどく利き過ぎてゐるのに驚きました。
「鹹《しよ》つぱいな」
喜平は一箸ごとにさう思ひながら、ちびりちびりと嘗めるやうにしてそれを味はつてゐるうちに、いつぞや主人佐渡守に聞いた、石州産れのある坊さんの失敗話をふと思ひ出しました。この坊さんは、あるとき京都へ上つて土産に香煎《かうせん》を買つて帰りました。折よくそこへ檀家の者が訪ねてきたので、
「幸ひ京土産の香煎がある。一服立てて進ぜよう」
坊さんはかう言ひながら、得意さうに香煎のなかへ塩を加減して、それに湯をさして客に進めました。客は一口それに唇をあてると、その瞬間、主人の坊さんが香煎を取り扱ふのに、麦熬しを立てるのと同じ方法をとつたことに気がついたものの、さて笑ひ出すわけにもゆかず、鹹つぱゆさに唇が曲りさうになるのを辛抱しながら、やつとそれを食べ畢《をわ》つたといふ話なのでした。
「鹹つぱいな。坊さんの香煎もこんなだつたかも知れない」
喜平はこんなことを考へながら、やつと麦熬しを食べてしまひました。
「も一ついかがでございます」
「いや、もう沢山だ」
喜平は盆の上に茶碗を返しました。爺さんはそれをもつて、薄暗い流し元に入つてゆきました。
先刻から店先の物蔭でぐつすり昼寝をしてゐた飼猫は、急に起き上つて両脚を蹈《ふ》み伸ばして大きく欠伸《あくび》をしたと思ふと、のそのそと歩き出して、爺さんが蓋をとつたまま置きつぱなしにしておいた熬し入れの小壺に戯れかからうとしました。喜平はすばやく手を延ばして小壺を奪ひとりました。
見るともなく、喜平の眼はその小壺の上に落ちました。胴の締り工合《ぐあひ》といひ、ふつくりとした肉つきといひ、平素《ふだん》あまりこんなものを見馴れない喜平の素人眼にも、何だか謂《い》はくがありさうに見えました。喜平は熱い掌面《てのひら》で肩から胴へかけての埃を拭き取つて、また見入りました。かつきりとした肩の張には、何となく気位があつて、いつだつたか主人佐渡守の家で、余所ながら拝見した肩衝とかいふ茶入にそつくりな点《ところ》があるやうに思ひました。
「何焼といふのかしら。茶入にしたらよかりさうだな。ともかくも熬し入にして、こんなところに捨てておくのは惜しいものだ」
喜平は腹のなかでさう思ひました。ふとした機会から掘り出されて、世間へ出た名器の出世話――聞き噛りにいろんな人から聞き伝へた、さうした話の幾つかが次から次へと思ひ出されました。
「運が向いてきたのかも知れない。ことによつたら、俺はこの小壺のお蔭で出世するかも知れないぞ」
喜平はまたかうも思ひました。そして畳付の工合を見直さうとして、この不思議な小壺をそつと古畳の上に置きましたが、勿体ないことでもしたやうに、慌ててまたそれを掌面に取りかへしました。
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