家の者が訪ねてきたので、
「幸ひ京土産の香煎がある。一服立てて進ぜよう」
坊さんはかう言ひながら、得意さうに香煎のなかへ塩を加減して、それに湯をさして客に進めました。客は一口それに唇をあてると、その瞬間、主人の坊さんが香煎を取り扱ふのに、麦熬しを立てるのと同じ方法をとつたことに気がついたものの、さて笑ひ出すわけにもゆかず、鹹つぱゆさに唇が曲りさうになるのを辛抱しながら、やつとそれを食べ畢《をわ》つたといふ話なのでした。
「鹹つぱいな。坊さんの香煎もこんなだつたかも知れない」
喜平はこんなことを考へながら、やつと麦熬しを食べてしまひました。
「も一ついかがでございます」
「いや、もう沢山だ」
喜平は盆の上に茶碗を返しました。爺さんはそれをもつて、薄暗い流し元に入つてゆきました。
先刻から店先の物蔭でぐつすり昼寝をしてゐた飼猫は、急に起き上つて両脚を蹈《ふ》み伸ばして大きく欠伸《あくび》をしたと思ふと、のそのそと歩き出して、爺さんが蓋をとつたまま置きつぱなしにしておいた熬し入れの小壺に戯れかからうとしました。喜平はすばやく手を延ばして小壺を奪ひとりました。
見るともなく、喜平の眼はその小壺の上に落ちました。胴の締り工合《ぐあひ》といひ、ふつくりとした肉つきといひ、平素《ふだん》あまりこんなものを見馴れない喜平の素人眼にも、何だか謂《い》はくがありさうに見えました。喜平は熱い掌面《てのひら》で肩から胴へかけての埃を拭き取つて、また見入りました。かつきりとした肩の張には、何となく気位があつて、いつだつたか主人佐渡守の家で、余所ながら拝見した肩衝とかいふ茶入にそつくりな点《ところ》があるやうに思ひました。
「何焼といふのかしら。茶入にしたらよかりさうだな。ともかくも熬し入にして、こんなところに捨てておくのは惜しいものだ」
喜平は腹のなかでさう思ひました。ふとした機会から掘り出されて、世間へ出た名器の出世話――聞き噛りにいろんな人から聞き伝へた、さうした話の幾つかが次から次へと思ひ出されました。
「運が向いてきたのかも知れない。ことによつたら、俺はこの小壺のお蔭で出世するかも知れないぞ」
喜平はまたかうも思ひました。そして畳付の工合を見直さうとして、この不思議な小壺をそつと古畳の上に置きましたが、勿体ないことでもしたやうに、慌ててまたそれを掌面に取りかへしました。
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