からは煤がぶら下つてをり、壁には鼠の小便の痕がついてゐました。そこらを見廻してゐたK氏は、最後に眼を私の顔に移して、
「いや、質屋の通帳などお持ちにならないに越したことはありません。初めて上つてとんだ失礼を申しました。」
と言つて叮嚀にお辞儀をしました.
 間もなくK氏は帰つて行きました。私は玄関に立つてその後姿を見送りました。その時ふと、
「旅先で金が無くなつたのでは、あの人も困るだらう。先刻は言ひそびれたが、少し位の金ならどうにかならない事もないんだから、呼び返して用立てようかしら。」
 こんな考が頭のなかを走りましたが、その次の瞬間にK氏の姿はもう見えなくなつてゐました。私は軽い悔恨の念を抱かされました。

 その晩友人のU博士が遊びに来たので、私はその日の出来事を話しました。
「それは極りが悪かつたでせう。質屋の通帳は芸術家にとつては、流行《はやり》すたりのない実用品の上に、また贅沢品でもあるのですからね。少くとも貧乏がみえになる当節では。」
 博士はいつものやうに口もとを上品にゆがめて言ひました。
「それぢや、お宅には無論おありでせうね。」
 私は戯談交りに訊きました。
 す
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング