集の出版元文淵堂は、その後東京に店を移しましたが、その頃は大阪心齋橋南本町の東北にあつた角店で、店の主人種次郎氏は當時二十一二才の美しい若者でした。四十二三才まで獨身でゐて、たゞもう出版事業に專念してゐた風變りの男で、先年與謝野晶子夫人が、
『何が悲しいといつて、戀もしないで、紅顏徒らに褪せてゆく文淵堂さんの姿を見るほど悲しいことはございませんね。』
と、私に話されたことがありましたが、それは與謝野さんが事情をよく御存じなかつたから、かうした嘆息を洩らされましたので、文淵堂主人が四十を過ぎるまで獨身で、童貞を守つてゐましたのは、その初戀の人が、縁なくして他家へ嫁づかなければならなくなつた當時、同主人に對つて、『私の頼みですから、あなたは精出して立派に出版業に成功して下さい』と言ひ殘した、その一言を守袋に入れて、半生の間童貞を守つて、その事業に專念してゐたのでした。
若い船塲商人の戀の一念の結晶である、その出版事業の第一着手として私の詩集が選ばれたのは、私を一方ならず喜ばせました。
この集を出版するについては、文淵堂は無論損をするつもりで取懸つたのでしたが、書物は思つたよりはよく出て、瞬く間に版を重ねました。讀書界の評判も、私の豫期してゐた以上によく、中に二三の批評家が、作者に辛らかつたのがある位でした。
その頃詩人として、私達の前に新しい道をきり拓いて進んでいつた人の中では、島崎藤村氏と土井晩翠氏とが最も光つて居りました。島崎氏は、その詩魂の持ち方において、情緒の動き方において、私達の脈搏に相通ずるものがあつて、氏の作品からは暗示を得る機會がたんとありました。實際若菜集を出した頃の島崎氏の感情の姿は、どんなにか華やかな踴躍に滿ちたものでありましたでせう。
私が後年同氏にお目にかゝつた折は、氏は夫人を亡くせられて、幼い子供さん達と一緒に不自由な下宿住ひをしてゐられる頃でしたが、はじめて見る氏の頭髮は殆んど半白で、永い間の氏の勞作と、悲哀とをまざ/\と見るやうで、これが幾年前の若菜集の詩人だらうかと思はれる程でした。その折、島崎氏は几帳面に膝の上に手を置いて、
『その後暫くお目にかゝりませんでしたね。』
といつて、私の顏をしげ/\と瞠められました。私はちよつと驚きました。氏にお目にかゝるのは、その日が初めてでしたのに、『その後暫く………』は何だか少し氣味が惡いやうな氣持がしない事もありませんでした。
『その後………といつて、お目にかゝるのは今日が初めてでせう。』
と、私はいひました。
『いゝえ、二度目ですよ。この前、國木田君が生きてゐた頃、どこかでお目にかかつたぢやありませんか。』
島崎氏は私が物忘れしてゐるのを訝しがるやうな口吻で云はれました。
『そんな筈はありません。こんどが初めてです。』
『なに、二度目ですよ。』
と、私達は暫く言ひあらそひました。
實際島崎氏が何といはれたつて、私達が會つたのは、その日が初めてゞした。氏は國木田氏が在世の頃といはれましたが、私が國木田氏に會つたのは、たつた二度で、それも二度とも大阪の土地ででありました。
その日、島崎氏と何くれとなく話をしてゐますと、
『お父さん只今。』
と、いつて氏の子供さんが二人連で學校から歸つて來られました。すると島崎氏は、ぶきつちよな手附で、本箱の抽斗から蜜柑を二つ取出して、
『さあ、これを上げますから、おとなしくしていらつしやいよ。今、お客さまですから。』
と、いつて居られました。
『なか/\おたいていぢやありませんね。』
『なに、男の子はいゝんですが、女の子には弱らされます。この頃は髮結の稽古までさせられてゐるんですからね。』
私は、そんな話を聞いて、暗然としたことがありました。
土井晩翠氏はその頃、高山樗牛氏はじめ、赤門出の批評家から頻りに推讚の聲を寄せられてゐましたが、私は土井氏の詩風とはどうも呼吸がぴつたりと合はないものですから、失禮ですが、あまり注意して居りませんでした。その後、氏が世界漫遊の途に上られて、羅馬にキーツの墓を訪はれた時、私がこの詩人を好いてゐたことを思ひ出されて、その墓畔に咲いてゐた紫と紅の花を二三輪摘んで、それを手紙に封じ込めて、遙かに伊太利の旅先から寄越された時には、その友誼をしみじみ嬉しく思ふとともに、もつとよく氏の作を讀んでゐた方がよかつたのだと思ひました。
私の第二の詩集『ゆく春』は、明治三十四年十月に、前のと同じ金尾文淵堂から出版しました。その頃私は大阪に出て、角田浩々歌客、平尾不孤氏達と一緒に、雜誌『小天地』の編輯をやつてゐました。この詩集は、その頃の出版界に流行した袖珍型の絹表紙で、本文はやはり二度刷でした。中味の二度刷といふことは、その頃の出版界では可なり贅澤と思はれてゐたと見えて、その後尾
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