くさうとするのであります。恋をするものは、道を歩くにも決して後をふり向かないといひます。むかしの詩人は、
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さまざまの事思ひ出す桜かな
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といひましたが、それはその詩人自らの追想であつて、桜には何の追想もありません。追想するほど自分とかけ離れた自分を持たないからであります。張りきつた恋愛の激情には、子女の繁殖など思ふ余裕はありません。それ故に桜の花は、梅や杏のやうに実らしい実を結ばうとはしません。花自らが生命の昂揚であり、燃焼でありますから、それが他の花から見て、若き日の徒費であらうと、少しも構はないのであります。
むかし徳川の末、たしか弘化の頃であつたと思ひます。名古屋に山本梅逸の弟子で、小島老鉄といつた画家がありました。古寺の閻魔堂のかたはらに、掘立小屋のやうな小やかな庵を結んで、乞食にも劣つた貧しい生活のなかにも、蘭の花のやうな清く高い心持を楽んでゐました。ある冬の事、あまりの寒さつづきに、小屋掛の身はどんなに凌ぎ難からうと、親切にもわざわざ炭三俵を送つてよこした友達がありました。老鉄はそれを見ると大層喜びました。
「折角の志
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