古松研
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)先日《こなひだ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|硯《けん》箪笥
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぷり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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先日《こなひだ》硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に河合寸翁《かはひすんをう》といふ男があつて、頼山陽と硯とが大好きなので聞えてゐた。
頼山陽を硯に比べたら、あの通りの慷慨家《かうがいか》だけに、ぷり/\憤《おこ》り出すかも知れないが、実際の事を言ふと、河合寸翁は山陽よりもまだ硯の方が好きだつたらしい。珍しい硯を百面以上も集めて、百|硯《けん》箪笥といつて凝つた箪笥に蔵《しま》ひ込んで女房や鼠などは滅多に其処《そこ》へ寄せ付けなかつた。
同じ藩に松平|太夫《たいふ》といふ幕府の御附家老があつて、これはまた「古松研」といふ紫石端渓の素晴しい名硯を持合せてゐた。何でもこの硯一つで河合家の百硯に対抗するといふ代物《しろもの》で、山陽の賞《ほ》めちぎつた箱書《はこがき》さへ添《そ》はつてゐるので、硯好きの河合はいゝ機会《をり》があつたら、何でも自分の方に捲《ま》き上げたいものだと、始終神様に願掛《ぐわんかけ》をしてゐたといふ事だ。
ある日河合と松平とは例《いつも》のやうに碁を打つてゐた。河合は態《わざ》と一二番負けて置いて、それからそろ/\、
「何《ど》うも今日は厭《いや》に負《まけ》が込む。こんな日には賭碁《かけご》でもしたら気が引立つかも知れない。何うだい、貴公には古松研、拙者には沈南蘋《しんなんびん》の名画があるが、あれを一つ賭けてみようぢやないか。」
と切り出してみた。
松平は二つ返事で承知をした。
「お気の毒だが、沈南蘋は拙者が預くかな。」
などと戯談《ぜうだん》を言ひ言ひ、また打ち始めたが、かね/″\お賽銭《さいせん》を貰つてゐる氏神様のお力で、河合は手もなく松平を負かして、名高い「古松研」は到頭河合の手に渡つて了つた。
維新後河合家の名硯は、それ/″\百硯箪笥から飛び出して知らぬ人に買ひ取られて往つた。当地の八田氏の売立会に出てゐた「金星銀糸硯」なども、その一つだが、例の「古松研」は今は神戸の某実業家の手に入って、細君以上に可愛《かあい》がられてゐるといふことだ。
底本:「日本の名随筆 別巻9 骨董」作品社
1991(平成3)年11月25日第1刷発行
1999(平成11)年8月25日第6刷発行
底本の親本:「完本 茶話 上巻」冨山房
1983(昭和58)年11月発行
※底本の親本で「河合寸翁《かはひすんをう》」に付けられた編注「〔道臣《ひろおみ》〕」は、削除しました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2005年5月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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