薤露行
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)纏《まとま》ったものを

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)簡浄|素樸《そぼく》という

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]
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 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄|素樸《そぼく》という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏《そしり》は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏《まとま》ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。
 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍《おど》らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大《おおい》に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似《まね》がしたくなるからやめた。

     一 夢

 百、二百、簇《むら》がる騎士は数をつくして北の方《かた》なる試合へと急げば、石に古《ふ》りたるカメロットの館《やかた》には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽《ひ》く衣《ころも》の裾《すそ》の響《ひびき》のみ残る。
 薄紅《うすくれない》の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳《もすそ》のみは軽《かろ》く捌《さば》く珠《たま》の履《くつ》をつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる階《きざはし》の正面には大いなる花を鈍色《にびいろ》の奥に織り込める戸帳《とばり》が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴《き》く。聴きおわりたる横顔をまた真向《まむこう》に反《か》えして石段の下を鋭どき眼にて窺《うかが》う。濃《こま》やかに斑《ふ》を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇《ばら》が暗きを洩《も》れて和《やわら》かき香《かお》りを放つ。君見よと宵《よい》に贈れる花輪のいつ摧《くだ》けたる名残《なごり》か。しばらくはわが足に纏《まつ》わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹《き》と立ち直りて、繊《ほそ》き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩《まば》ゆき光り矢の如く向い側なる室《しつ》の中よりギニヴィアの頭《かしら》に戴《いただ》ける冠を照らす。輝けるは眉間《みけん》に中《あた》る金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚《はば》かり、地を憚かる中に、身も世も入《い》らぬまで力の籠《こも》りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏《おそ》れず。
「ギニヴィア!」と応《こた》えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋《うず》めてまた捲《ま》き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬《ほお》の色は釣《つ》り合わず蒼白《あおじろ》い。
 女は幕をひく手をつと放して内に入《い》る。裂目《さけめ》を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立《きわだ》ちて見える。左右に開く廻廊には円柱《まるばしら》の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北の方《かた》なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉《まゆ》に晴れがたき雲の蟠《わだか》まりて、弱き笑《わらい》の強《し》いて憂《うれい》の裏《うち》より洩れ来《きた》る。
「贈りまつれる薔薇の香《か》に酔《え》いて」とのみにて男は高き窓より表の方《かた》を見やる。折からの五月である。館を繞《めぐ》りて緩《ゆる》く逝《ゆ》く江に千本の柳が明かに影を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》して、空に崩《くず》るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木《こ》の間《ま》隠れに白く※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]《ひ》く筋の、一縷《いちる》の糸となって烟《けむり》に入るは、立ち上《のぼ》る朝日影に蹄《ひづめ》の塵《ちり》を揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方《かた》へと飛ばせたる本道である。
「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂《う》き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁《えにし》とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚《さんご》の唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓に堰《せ》かるるあの世までも渝《かわ》らじ」と男は黒き瞳《ひとみ》を返して女の顔を眤《じっ》と見る。
「さればこそ」と女は右の手を高く挙《あ》げて広げたる掌《てのひら》を竪《たて》にランスロットに向ける。手頸《てくび》を纏《まと》う黄金《こがね》の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香《か》に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束《つか》の間に危うきを貪《むさぼ》りて、長き逢《お》う瀬《せ》の淵《ふち》と変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然《かつぜん》と瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶《かな》わばこの黄金、この珠玉《たま》の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様《さま》である。白き腕《かいな》のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡《なび》きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖《そで》は、胸を過ぎてより豊かなる襞《ひだ》を描がいて、裾は強けれども剛《かた》からざる線を三筋ほど床《ゆか》の上まで引く。ランスロットはただ窈窕《ようちょう》として眺めている。前後を截断《せつだん》して、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。
 機微の邃《ふか》きを照らす鏡は、女の有《も》てる凡《すべ》てのうちにて、尤《もっと》も明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭《かしら》を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾《と》きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛《くも》の巣と消えて剰《あま》すは嬉《うれ》しき人の情《なさけ》ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間《ひま》に際どく擦《す》り込む石火の楽みを、長《とこし》えに続《つ》づけかしと念じて両頬に笑《えみ》を滴《したた》らす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と少時《しばし》して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕《あと》を追い懸けて病|癒《い》えぬと申し給え。この頃の蔭口《かげぐち》、二人をつつむ疑《うたがい》の雲を晴し給え」
「さほどに人が怖《こわ》くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室《しつ》の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳《とばり》の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞《じゃくまく》の故《もと》に帰る。
「宵《よべ》見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽《たちま》ち紅《こう》落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心|躁《さわ》ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥《ふ》したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一|疋《ぴき》の蛇は黄金《こがね》の鱗《うろこ》を細かに身に刻んで、擡《もた》げたる頭《かしら》には青玉《せいぎょく》の眼《がん》を嵌《は》めてある。
「わが冠の肉に喰《く》い入るばかり焼けて、頭の上に衣《きぬ》擦《す》る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞《めぐ》りて動き出す。頭は君の方《かた》へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間《ま》に、君とわれは腥《なまぐ》さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術《すべ》なし。たとい忌《いま》わしき絆《きずな》なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣《こころや》りなりき。囓《か》まるるとも螫《さ》さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の紅《くれない》なるが、めらめらと燃え出《いだ》して、繋《つな》げる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋《ひとひろ》余りは、真中《まなか》より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭《にお》いを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失《う》せよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒《さ》めたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵《よべ》の名残かと骨を撼《ゆる》がす」と落ち付かぬ眼を長き睫《まつげ》の裏に隠してランスロットの気色《けしき》を窺《うかが》う。七十五度の闘技に、馬の脊《せ》を滑《すべ》るは無論、鐙《あぶみ》さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇《く》しとのみは思わず。快からぬ眉根は自《おのずか》ら逼《せま》りて、結べる口の奥には歯さえ喰い締《し》ばるならん。
「さらば行こう。後《おく》れ馳《ば》せに北の方《かた》へ行こう」と拱《こまぬ》いたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯《からだ》をゆらりと起す。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵《くびす》を回《めぐ》らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合《ゆり》の花弁《はなびら》をひたふるに吸える心地である。ランスロットは後《あと》をも見ずして石階を馳け降りる。
 やがて三たび馬の嘶《いなな》く音《ね》がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿《たかどの》を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚《よ》りて、かの人の出《いづ》るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面《はなづら》が下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を掠《かす》めて砕くるばかりに石の上に落つる。
 槍《やり》の穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ラ
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