彼《かれ》共にわざと後れたる我を肯《うけが》わん。病と臥せる我の作略《さりゃく》を面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットは漸《ようや》くに心を定める。
部屋のあなたに輝くは物の具である。鎧《よろい》の胴に立て懸けたるわが盾を軽々《かろがろ》と片手に提《さ》げて、女の前に置きたるランスロットはいう。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉《ほま》れ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。
「うけてか」と片頬《かたほ》に笑《え》める様は、谷間の姫《ひめ》百合《ゆり》に朝日影さして、しげき露の痕《あと》なく晞《かわ》けるが如し。
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身《かたみ》と残す。試合果てて再びここを過《よ》ぎるまで守り給え」
「守らでやは」と女は跪《ひざまず》いて両手に盾を抱《いだ》く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。
この時|櫓《やぐら》の上を烏《からす》鳴き過ぎて、夜《よ》はほのぼのと明け渡る。
四 罪
アーサーを嫌《きら》うにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニヴィアの己《おの》れにのみ語る胸のうちである。
北の方《かた》なる試合果てて、行けるものは皆|館《やかた》に帰れるを、ランスロットのみは影さえ見えず。帰れかしと念ずる人の便《たよ》りは絶えて、思わぬものの※[#「金+(鹿/れっか)」、第3水準1−93−42]《くつわ》を連ねてカメロットに入るは、見るも益なし。一日には二日を数え、二日には三日を数え、遂《つい》に両手の指を悉《ことごと》く折り尽して十日に至る今日《こんにち》までなお帰るべしとの願《ねがい》を掛けたり。
「遅き人のいずこに繋《つな》がれたる」とアーサーはさまでに心を悩ませる気色《けしき》もなくいう。
高き室《しつ》の正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き毛氈《もうせん》にて蔽《おお》う。段の上なる、大《おおい》なる椅子《いす》に豊かに倚《よ》るがアーサーである。
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、床几《しょうぎ》の上に、纎《ほそ》き指を組み合せて、膝《ひざ》より下は長き裳《もすそ》にかくれて履《くつ》のありかさえ定かならず。
よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ躍《おど》るを。話しの種の思う坪に生《は》えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
「後《おく》れて行くものは後れて帰る掟《おきて》か」といい添えて片頬《かたほ》に笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐《きり》に刺されし痛《いたみ》を受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には颯《さ》と音がして熱き血を注《さ》す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖《そで》の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛《さしげ》に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女[#「美しき少女」に傍点]というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾《いく》日《ひ》を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
「美しき少女[#「美しき少女」に傍点]! 美しき少女[#「美しき少女」に傍点]!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履《くつ》に三たび石の床《ゆか》を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
夫に二心《ふたごころ》なきを神の道との教《おしえ》は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉《うれ》しと見しも君がためなり。春風《しゅんぷう》に心なく、花|自《おのずか》ら開く。花に罪ありとは下《くだ》れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明《あきらか》なるは鏡の徳なり。かく観ずる裡《うち》に、人にも世にも振り棄《す》てられたる時の慰藉《いしゃ》はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆《くつが》えされて、踵《くびす》を支《ささ》うるに一塵《いちじん》だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎《とが》も恐れず、世を憚《はばか》りの関《せき》一重《ひとえ》あなたへ越せば、生涯の落《お》ち付《つき》はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府《よみ》へ隕《お》つる。わが坐《す》わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床|崩《くず》れて、わが踏む大地の殻《こく》裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧《くだ》けよと圧《お》す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶《もだえ》を人知れぬ方《かた》へ洩《も》らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己《おのれ》を誣《し》いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽《のど》を転《まろ》び出《い》でたり。
ひく浪《なみ》の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛《か》む勢《いきおい》の、前よりは凄《すさま》じきを、浪|自《みずか》らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然《ゆうぜん》として常よりも切なきわれに復《かえ》る。何事も解せぬ風情《ふぜい》に、驚ろきの眉《まゆ》をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少《しば》らく前のアーサーにあらず。
人を傷《きずつ》けたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど悔《くい》の甚《はなはだ》しきはあらず。聖徒に向って鞭《むち》を加えたる非の恐しきは、鞭《むちう》てるものの身に跳《は》ね返る罰なきに、自《みずか》らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然《しょうぜん》として骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、嫁《とつ》ぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身《おんみ》のわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日《はつか》を、帰るを、忘るべきに、罵《のの》しるは卑《いや》し」とアーサーは王妃の方《かた》を見て不審の顔付である。
「美しき少女[#「美しき少女」に傍点]!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐《あわれ》を寄せたりとも見えず。
アーサーは椅子に倚る身を半ば回《めぐ》らしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。丈《じょう》に余る石の十字を深く地に埋《うず》めたるに、蔦《つた》這《は》いかかる春の頃なり。路《みち》に迷いて御堂《みどう》にしばし憩《いこ》わんと入れば、銀に鏤《ちり》ばむ祭壇の前に、空色の衣《きぬ》を肩より流して、黄金《こがね》の髪に雲を起せるは誰《た》ぞ」
女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床《ゆか》しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然《こつぜん》と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋《しお》れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天《あま》つ下《くだ》れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
逝《ゆ》ける日[#「日」に傍点]は追えども帰らざるに逝ける事[#「事」に傍点]は長《とこ》しえに暗きに葬むる能《あた》わず。思うまじと誓える心に発矢《はっし》と中《あた》る古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処《いずこ》へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑《おさ》えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は屍《しかばね》を抱《いだ》くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵《ののし》る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼《せま》る。
入口に掛けたる厚き幕は総《ふさ》に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈《たけ》高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて入《い》るはアグラヴェン、逞《たく》ましき腕の、寛《ゆる》き袖を洩れて、赭《あか》き頸《くび》の、かたく衣の襟《えり》に括《くく》られて、色さえ変るほど肉づける男である。二人の後《あと》には物色する遑《いとま》なきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人《ひとり》前に、ずらりと並ぶ、数は凡《すべ》てにて十二人。何事かなくては叶《かな》わぬ。
モードレッドは、王に向って会釈せる頭《かしら》を擡《もた》げて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者《おうしゃ》の事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という面持《おももち》である。
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
アーサーは我とわが胸を敲《たた》いて「黄金の冠は邪《よこしま》の頭に戴《いただ》かず。天子の衣は悪を隠さず」と壇上に延び上る。肩に括《くく》る緋《ひ》の衣の、裾は開けて、白き裏が雪の如く光る。
「罪あるを許さずと誓わば、君が傍《かたえ》に坐せる女をも許さじ」とモードレッドは臆《おく》する気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの眉間《みけん》を指《さ》す。ギニヴィアは屹《き》と立ち上る。
茫然《ぼうぜん》たるアーサーは雷火に打たれたる唖《おし》の如く、わが前に立てる人――地を抽《ぬ》き出でし巌《いわお》とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我を誣《し》いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐《いつわ》りは天も照覧あれ」と繊《ほそ》き手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹《たか》の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃《のが》れず」と口々にいう。
ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に扶《たす》けて「ランスロット!」と幽《かすか》に叫ぶ。王は迷う。肩に纏《まつ》わる緋の衣の裏を半ば返して、右手《めて》の掌《たなごころ》を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が石※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]《せきちょう》に響《ひびき》を反《かえ》して、窈然《ようぜん》と遠く鳴る木枯《こがらし》の如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、錆《さ》びたる鉄鎖に軋《きし》らせて開く音がする。室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事《ただごと》ではない。
五 舟
「※[#「(矛+攵)/金」、第3水準1−93−30]《かぶと》に巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目も覚《さ》むべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士を仆《たお》して、引き挙ぐる間際《まぎわ》に始めてわが名をなのる。驚く人の醒《さ》めぬ間《ま》を、ラヴェンと共に埒《らち》を出でたり。行く末は勿論《もちろん》アストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。
「ランスロット?」と父は驚きの
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