すべ》てのうちにて、尤《もっと》も明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭《かしら》を抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾《と》きが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛《くも》の巣と消えて剰《あま》すは嬉《うれ》しき人の情《なさけ》ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間《ひま》に際どく擦《す》り込む石火の楽みを、長《とこし》えに続《つ》づけかしと念じて両頬に笑《えみ》を滴《したた》らす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と少時《しばし》して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕《あと》を追い懸けて病|癒《い》えぬと申し給え。この頃の蔭口《かげぐち》、二人をつつむ疑《うたがい》の雲を晴し給え」
「さほどに人が怖《こわ》くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室《しつ》の静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳《とばり》の風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞《じゃくまく》の故《もと》に帰る。
「宵《よべ》見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽《たちま》ち紅《こう》落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心|躁《さわ》ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥《ふ》したるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一|疋《ぴき》の蛇は黄金《こがね》の鱗《うろこ》を細かに身に刻んで、擡《もた》げたる頭《かしら》には青玉《せいぎょく》の眼《がん》を嵌《は》めてある。
「わが冠の肉に喰《く》い入るばかり焼けて、頭の上に衣《きぬ》擦《す》る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞《めぐ》りて動き出す。頭は君の方《かた》へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間《ま》に、君とわれは腥《なまぐ》さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術《すべ》なし。たとい忌《いま》わしき絆《きずな》な
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