静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶《めと》らんとして、心惑える折、居《い》ながらに世の成行《なりゆき》を知るマーリンは、首を掉《ふ》りて慶事を肯《がえん》んぜず。この女|後《のち》に思わぬ人を慕う事あり、娶る君に悔《くい》あらん。とひたすらに諫《いさ》めしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人[#「思わぬ人」に傍点]の誰《たれ》なるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人[#「思わぬ人」に傍点]の誰なるかを知りたる時、天《あめ》が下《した》に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命《さだめ》に廻《めぐ》り合せたる我を恨み、このうれしき幸《さち》を享《う》けたる己《おの》れを悦《よろこ》びて、楽みと苦みの綯《ないまじ》りたる縄を断たんともせず、この年月《としつき》を経たり。心|疚《や》ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をも醸《かも》せと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃を棄《す》てず。ただ疑の積もりて証拠《あかし》と凝らん時――ギニヴィアの捕われて杭《くい》に焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
眠られぬ戸に何物かちょと障《さわ》った気合《けわい》である。枕を離るる頭《かしら》の、音する方《かた》に、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸《なきがら》に脈も通わず。静《しずか》である。
再び障った音は、殆《ほと》んど敲《たた》いたというべくも高い。慥《たし》かに人ありと思い極《きわ》めたるランスロットは、やおら身を臥所《ふしど》に起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭《ろうそく》の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方《かた》にまたたく。乙女の顔は翳《かざ》せる赤き袖の影に隠れている。面映《おもはゆ》きは灯火《ともしび》のみならず。
「この深き夜《よ》を……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――鼠《ねずみ》だに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹《もみ》の衝立《ついたて》に、花よりも美くしき顔をかくす。常に勝《まさ
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