《へだ》てる。彼らはかくしてついに宿命の鬼の餌食《えじき》となる。明日《あす》食われるか明後日《あさって》食われるかあるいはまた十年の後《のち》に食われるか鬼よりほかに知るものはない。この門に横付《よこづけ》につく舟の中に坐している罪人の途中の心はどんなであったろう。櫂《かい》がしわる時、雫《しずく》が舟縁《ふなべり》に滴《した》たる時、漕《こ》ぐ人の手の動く時ごとに吾が命を刻まるるように思ったであろう。白き髯《ひげ》を胸まで垂れて寛《ゆる》やかに黒の法衣《ほうえ》を纏《まと》える人がよろめきながら舟から上る。これは大僧正クランマーである。青き頭巾《ずきん》を眉深《まぶか》に被《かぶ》り空色の絹の下に鎖《くさ》り帷子《かたびら》をつけた立派な男はワイアットであろう。これは会釈《えしゃく》もなく舷《ふなべり》から飛び上《あが》る。はなやかな鳥の毛を帽に挿《さ》して黄金《こがね》作りの太刀《たち》の柄《え》に左の手を懸《か》け、銀の留め金にて飾れる靴の爪先を、軽《かろ》げに石段の上に移すのはローリーか。余は暗きアーチの下を覗《のぞ》いて、向う側には石段を洗う波の光の見えはせぬかと首を延ばした。水はない。逆賊門とテームス河とは堤防工事の竣功《しゅんこう》以来全く縁がなくなった。幾多《いくた》の罪人を呑み、幾多の護送船を吐き出した逆賊門は昔《むか》しの名残《なご》りにその裾《すそ》を洗う笹波《ささなみ》の音を聞く便《たよ》りを失った。ただ向う側に存する血塔《けっとう》の壁上に大《おおい》なる鉄環《てっかん》が下《さ》がっているのみだ。昔しは舟の纜《ともづな》をこの環《かん》に繋《つな》いだという。
左《ひだ》りへ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇《しょうび》の乱《らん》に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。草のごとく人を薙《な》ぎ、鶏《にわとり》のごとく人を潰《つぶ》し、乾鮭《からさけ》のごとく屍《しかばね》を積んだのはこの塔である。血塔と名をつけたのも無理はない。アーチの下に交番のような箱があって、その側《かたわ》らに甲形《かぶとがた》の帽子をつけた兵隊が銃を突いて立っている。すこぶる真面目《まじめ》な顔をしているが、早く当番を済まして、例の酒舗《しゅほ》で一杯傾けて、一件《いっけん》にからかって遊びたいという人相である。塔の壁は不規則な石を畳み上げて厚く造ってあるから表面は決して滑《なめらか》ではない。所々に蔦《つた》がからんでいる。高い所に窓が見える。建物の大きいせいか下から見るとはなはだ小さい。鉄の格子《こうし》がはまっているようだ。番兵が石像のごとく突立ちながら腹の中で情婦とふざけている傍《かたわ》らに、余は眉《まゆ》を攅《あつ》め手をかざしてこの高窓を見上げて佇《たた》ずむ。格子を洩《も》れて古代の色硝子《いろガラス》に微《かす》かなる日影がさし込んできらきらと反射する。やがて煙のごとき幕が開《あ》いて空想の舞台がありありと見える。窓の内側《うちがわ》は厚き戸帳《とばり》が垂れて昼もほの暗い。窓に対する壁は漆喰《しっくい》も塗らぬ丸裸《まるはだか》の石で隣りの室とは世界滅却《せかいめっきゃく》の日に至るまで動かぬ仕切《しき》りが設けられている。ただその真中《まんなか》の六畳ばかりの場所は冴《さ》えぬ色のタペストリで蔽《おお》われている。地《じ》は納戸色《なんどいろ》、模様は薄き黄《き》で、裸体の女神《めがみ》の像と、像の周囲に一面に染め抜いた唐草《からくさ》である。石壁《いしかべ》の横には、大きな寝台《ねだい》が横《よこた》わる。厚樫《あつがし》の心《しん》も透《とお》れと深く刻みつけたる葡萄《ぶどう》と、葡萄の蔓《つる》と葡萄の葉が手足の触《ふ》るる場所だけ光りを射返す。この寝台《ねだい》の端《はじ》に二人《ふたり》の小児《しょうに》が見えて来た。一人は十三四、一人は十歳《とお》くらいと思われる。幼なき方は床《とこ》に腰をかけて、寝台の柱に半《なか》ば身を倚《も》たせ、力なき両足をぶらりと下げている。右の肱《ひじ》を、傾けたる顔と共に前に出して年嵩《としかさ》なる人の肩に懸ける。年上なるは幼なき人の膝の上に金《きん》にて飾れる大きな書物を開《ひろ》げて、そのあけてある頁《ページ》の上に右の手を置く。象牙《ぞうげ》を揉《も》んで柔《やわら》かにしたるごとく美しい手である。二人とも烏《からす》の翼を欺《あざむ》くほどの黒き上衣《うわぎ》を着ているが色が極めて白いので一段と目立つ。髪の色、眼の色、さては眉根鼻付《まゆねはなつき》から衣装《いしょう》の末に至るまで両人《ふたり》共ほとんど同じように見えるのは兄弟だからであろう。
兄が優しく清らかな声で膝の上なる書物を読む。
「我が眼の前に、わが死ぬべき折の様を想《おも
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