と二十世紀を軽蔑《けいべつ》するように立っているのが倫敦塔である。汽車も走れ、電車も走れ、いやしくも歴史の有らん限りは我のみはかくてあるべしと云わぬばかりに立っている。その偉大なるには今さらのように驚かれた。この建築を俗に塔と称《とな》えているが塔と云うは単に名前のみで実は幾多《いくた》の櫓《やぐら》から成り立つ大きな地城《じしろ》である。並び聳《そび》ゆる櫓には丸きもの角張《かくば》りたるものいろいろの形状はあるが、いずれも陰気な灰色をして前世紀の紀念《きねん》を永劫《えいごう》に伝えんと誓えるごとく見える。九段《くだん》の遊就館《ゆうしゅうかん》を石で造って二三十並べてそうしてそれを虫眼鏡《むしめがね》で覗《のぞ》いたらあるいはこの「塔」に似たものは出来上りはしまいかと考えた。余はまだ眺《なが》めている。セピヤ色の水分をもって飽和《ほうわ》したる空気の中にぼんやり立って眺めている。二十世紀の倫敦がわが心の裏《うち》から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻《まぼろし》のごとき過去の歴史を吾が脳裏《のうり》に描《えが》き出して来る。朝起きて啜《すす》る渋茶に立つ煙りの寝足《ねた》らぬ夢の尾を曳《ひ》くように感ぜらるる。しばらくすると向う岸から長い手を出して余を引張《ひっぱ》るかと怪《あや》しまれて来た。今まで佇立《ちょりつ》して身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行きたくなった。長い手はなおなお強く余を引く。余はたちまち歩を移して塔橋を渡り懸けた。長い手はぐいぐい牽《ひ》く。塔橋を渡ってからは一目散《いちもくさん》に塔門まで馳《は》せ着けた。見る間《ま》に三万坪に余る過去の一大磁石《いちだいじしゃく》は現世《げんせ》に浮游《ふゆう》するこの小鉄屑《しょうてつくず》を吸収しおわった。門を入《はい》って振り返ったとき、
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憂《うれい》の国に行かんとするものはこの門を潜《くぐ》れ。
永劫の呵責《かしゃく》に遭《あ》わんとするものはこの門をくぐれ。
迷惑の人と伍《ご》せんとするものはこの門をくぐれ。
正義は高き主《しゅ》を動かし、神威《しんい》は、最上智《さいじょうち》は、最初愛《さいしょあい》は、われを作る。
我が前に物《もの》なしただ無窮あり我は無窮に忍ぶものなり。
この門を過ぎんとするものはいっさいの望《のぞみ》を捨てよ。
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という句がどこぞで刻《きざ》んではないかと思った。余はこの時すでに常態《じょうたい》を失《うしな》っている。
空濠《からほり》にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形《まるがた》の石造《せきぞう》で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立《きつりつ》している。その中間を連《つら》ねている建物の下を潜《くぐ》って向《むこう》へ抜ける。中塔とはこの事である。少し行くと左手に鐘塔《しゅとう》が峙《そばだ》つ。真鉄《まがね》の盾《たて》、黒鉄《くろがね》の甲《かぶと》が野を蔽《おお》う秋の陽炎《かげろう》のごとく見えて敵遠くより寄すると知れば塔上の鐘を鳴らす。星黒き夜、壁上《へきじょう》を歩む哨兵《しょうへい》の隙《すき》を見て、逃《のが》れ出ずる囚人の、逆《さか》しまに落す松明《たいまつ》の影より闇に消ゆるときも塔上の鐘を鳴らす。心|傲《おご》れる市民の、君の政《まつりごと》非なりとて蟻《あり》のごとく塔下に押し寄せて犇《ひし》めき騒ぐときもまた塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。ある時は無二に鳴らし、ある時は無三に鳴らす。祖《そ》来《きた》る時は祖を殺しても鳴らし、仏《ぶつ》来《きた》る時は仏を殺しても鳴らした。霜《しも》の朝《あした》、雪の夕《ゆうべ》、雨の日、風の夜を何べんとなく鳴らした鐘は今いずこへ行ったものやら、余が頭《こうべ》をあげて蔦《つた》に古《ふ》りたる櫓《やぐら》を見上げたときは寂然《せきぜん》としてすでに百年の響を収めている。
また少し行くと右手に逆賊門《ぎゃくぞくもん》がある。門の上には聖《セント》タマス塔が聳《そび》えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆《しゃば》の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途《さんず》の川でこの門は冥府《よみ》に通ずる入口であった。彼らは涙の浪《なみ》に揺られてこの洞窟《どうくつ》のごとく薄暗きアーチの下まで漕《こ》ぎつけられる。口を開《あ》けて鰯《いわし》を吸う鯨《くじら》の待ち構えている所まで来るやいなやキーと軋《きし》る音と共に厚樫《あつがし》の扉は彼らと浮世の光りとを長《とこし》えに隔
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