わり]
という句がどこぞで刻《きざ》んではないかと思った。余はこの時すでに常態《じょうたい》を失《うしな》っている。
空濠《からほり》にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形《まるがた》の石造《せきぞう》で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立《きつりつ》している。その中間を連《つら》ねている建物の下を潜《くぐ》って向《むこう》へ抜ける。中塔とはこの事である。少し行くと左手に鐘塔《しゅとう》が峙《そばだ》つ。真鉄《まがね》の盾《たて》、黒鉄《くろがね》の甲《かぶと》が野を蔽《おお》う秋の陽炎《かげろう》のごとく見えて敵遠くより寄すると知れば塔上の鐘を鳴らす。星黒き夜、壁上《へきじょう》を歩む哨兵《しょうへい》の隙《すき》を見て、逃《のが》れ出ずる囚人の、逆《さか》しまに落す松明《たいまつ》の影より闇に消ゆるときも塔上の鐘を鳴らす。心|傲《おご》れる市民の、君の政《まつりごと》非なりとて蟻《あり》のごとく塔下に押し寄せて犇《ひし》めき騒ぐときもまた塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。ある時は無二に鳴らし、ある時は無三に鳴らす。祖《そ》来《きた》る時は祖を殺しても鳴らし、仏《ぶつ》来《きた》る時は仏を殺しても鳴らした。霜《しも》の朝《あした》、雪の夕《ゆうべ》、雨の日、風の夜を何べんとなく鳴らした鐘は今いずこへ行ったものやら、余が頭《こうべ》をあげて蔦《つた》に古《ふ》りたる櫓《やぐら》を見上げたときは寂然《せきぜん》としてすでに百年の響を収めている。
また少し行くと右手に逆賊門《ぎゃくぞくもん》がある。門の上には聖《セント》タマス塔が聳《そび》えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆《しゃば》の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途《さんず》の川でこの門は冥府《よみ》に通ずる入口であった。彼らは涙の浪《なみ》に揺られてこの洞窟《どうくつ》のごとく薄暗きアーチの下まで漕《こ》ぎつけられる。口を開《あ》けて鰯《いわし》を吸う鯨《くじら》の待ち構えている所まで来るやいなやキーと軋《きし》る音と共に厚樫《あつがし》の扉は彼らと浮世の光りとを長《とこし》えに隔
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