Mルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺《ゆ》り越した一握《ひとにぎ》りの髪が軽《かろ》くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真《まこ》との道に入りたもう心はなきか」と問う。女|屹《きっ》として「まこととは吾と吾|夫《おっと》の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後《あと》ならば誘《さそ》うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹《くぼ》んだ、煤色《すすいろ》の、背の低い首斬り役が重た気《げ》に斧をエイと取り直す。余の洋袴《ズボン》の膝に二三点の血が迸《ほとば》しると思ったら、すべての光景が忽然《こつぜん》と消え失《う》せた。
あたりを見廻わすと男の子を連れた女はどこへ行ったか影さえ見えない。狐に化《ば》かされたような顔をして茫然《ぼうぜん》と塔を出る。帰り道にまた鐘塔《しゅとう》の下を通ったら高い窓からガイフォークスが稲妻《いなずま》のような顔をちょっと出した。「今一時間早かったら……。この三本のマッチが役に立たなかったのは実に残念である」と云う声さえ聞えた。自分ながら少々気が変だと思ってそこそこに塔を出る。塔橋を渡って後《うし》ろを顧《かえり》みたら、北の国の例かこの日もいつのまにやら雨となっていた。糠粒《ぬかつぶ》を針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵《こうじん》と煤煙《ばいえん》を溶《と》かして濛々《もうもう》と天地を鎖《とざ》す裏《うち》に地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。
無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉《からす》が五羽いたでしょうと云う。おやこの主人もあの女の親類かなと内心|大《おおい》に驚ろくと主人は笑いながら「あれは奉納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の一半は倫敦塔を見たその日のうちに打《ぶ》ち壊《こ》わされてしまった。余はまた主人に壁の題辞の事を話すと、主人は無造作《むぞうさ》に「ええあの落書《らくがき》ですか、つまらない事をしたもんで、せ
前へ
次へ
全21ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング