る。翼《つばさ》をすくめて黒い嘴《くちばし》をとがらせて人を見る。百年|碧血《へきけつ》の恨《うらみ》が凝《こ》って化鳥《けちょう》の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡《にれ》の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍《そば》に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺《なが》めている。希臘風《ギリシャふう》の鼻と、珠《たま》を溶《と》いたようにうるわしい目と、真白な頸筋《くびすじ》を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉《からす》が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒《さ》むそうだから、麺麭《パン》をやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫《まつげ》の奥に漾《ただよ》うているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独《ひと》りで考えているかと思わるるくらい澄《すま》している。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁《いんねん》でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。あやしき女を見捨てて余は独りボーシャン塔に入《い》る。
倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸《ひさん》の歴史である。十四世紀の後半にエドワード三世の建立《こんりゅう》にかかるこの三層塔の一階室に入《い》るものはその入るの瞬間において、百代の遺恨《いこん》を結晶したる無数の紀念《きねん》を周囲の壁上に認むるであろう。すべての怨《うらみ》、すべての憤《いきどおり》、すべての憂《うれい》と悲《かなし》みとはこの怨《えん》、この憤、この憂と悲の極端より生ずる慰藉《いしゃ》と共に九十一種の題辞となって今になお観《み》る者の心を寒からしめている。冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫ってわが不運と定業《じょうごう》とを天地の間に刻《きざ》みつけたる人は、過去という底なし穴に葬られて、空しき文字《もんじ》のみいつまでも娑婆《しゃば》の光りを見る。彼らは強いて自《みずか》らを愚弄《ぐろう》するにあらずやと怪しまれる。世に反語《はんご》というがある。白というて黒を意味し、小《しょう》と唱《と
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