沈着に暮されると自負しつつあったのだ。自惚《うぬぼれ》自惚《うぬぼれ》! こんな事では道を去る事三千里。まず明日からは心を入れ換えて勉強専門の事。こう決心して寝てしまう。
 かかるありさまでこの薄暗い汚苦しい有名なカンバーウェルと云う貧乏町の隣町に昨年の末から今日までおったのである。おったのみならずこの先も留学期限のきれるまではここにおったかも知れぬのである。しかるにここに或る出来事が起っていくらおりたくっても退去せねばならぬ事となった、というと何か小説的だが、その訳を聞くとすこぶる平凡さ。世の中の出来事の大半は皆平凡な物だから仕方がない。この家はもとからの下宿ではない。去年までは女学校であったので、ここの神《かみ》さんと妹が経験もなく財産もなく将来の目的もしかと立たないのに自営の道を講ずるためにこの上品のような下等のような妙な商買《しょうばい》を始めたのである。彼らは固《もと》より不正な人間ではない。正道を踏んで働けるだけ働いたのだ。しかし耶蘇教《ヤソきょう》の神様も存外|半間《はんま》なもので、こういう時にちょっと人を助けてやる事を知らない。そこでもって家賃が滞《とどこお》る――倫
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