三十三円に御座候。あるいは御気に召さぬかと存じ候えども、御出被下《おいでくだされ》候えば喜こんで室々御案内|可仕《つかまつるべく》候、敬具」。飯を食いながら呼鈴を押して宿の神《かみ》さんを呼んだ。「とうとうあなたの方へ行く事にしましたよ。一週三十三円の下宿料なんかとうてい我輩には払えんから君の方へ行きましょうよ」「はあそうですか、どうもありがとう、なるべく気をつけますからどうぞさよう願いたいもので」。細君が出て行った後から亭主の首が半分戸の間から出た。Thank you, Mr. Natsume, thank you. と言ってニコニコ笑った。我輩も少々|嬉《うれ》しいような心持ちがした。細君と妹は引越しの荷ごしらえで終日急がしい。七時に茶を飲むときに食堂で逢《あ》った。「今日は飼っていた鸚鵡《おうむ》を売りました」と妹がいった。姉もまけずに「前使った学校の招牌《かんばん》も売りました。十円に買って行きました」と云った。
運命の車は容赦なく廻転しつつある。我輩の前および彼ら二人の前にはいかなる出来事が横わりつつあるか。我らは三人ながら愚な事をしているかも知れぬ。愚かも知れぬ、また利口かも知れぬ。ただ我輩の運命が彼ら二人の運命と漸々接近しつつあるは事実である。後を顧《かえり》みてかの薄紫の貴女及びその妹の事とその門構付《もんがまえつき》の家を想像し、前を見てこの貧困なるしかし正直なる二人の姉妹とその未来の楽園と予期しつつある格子戸作《こうしどづく》りを想像して、両者の差違を趣味あるようにも感ずる。また貧富の懸隔はかように色気なき物かとも感ずる。またミカウバーと住んでおったデヴィッド・カッパーフィールドのような感じもする。四月二十日。
三
朋友《ほうゆう》その朋友と共に我輩が生活を共にするところの朋友姉妹の事については前回少しく述ぶるところあったが、このほかに我輩がもっとも敬服しもっとも辟易《へきえき》するところの朋友がまだ一人ある。姓はペン渾名《あだな》は bedge pardon なる聖人の事を少しく報道しないでは何だか気がすまないから、同君の事をちょっと御話して、次回からは方面の変った目撃談観察談を御紹介仕ろう。そもそもこのペンすなわち内の下女なるペンになぜ我輩がこの渾名を呈したかと云うと、彼は舌が短かすぎるのか長すぎるのか呂律《ろれつ》が少々廻り兼ねる善人なる故に I beg your pardon と云う代りにいつでも bedge pardon と云うからである。ベッジ・パードンは名のごとくいかにもベッジ・パードンである。しかし非常な能弁家で、彼の舌の先から唾液《だえき》を容赦なく我輩の顔面に吹きかけて話し立てる時などは滔々滾々《とうとうこんこん》として惜《おし》い時間を遠慮なく人に潰《つぶ》させて毫《ごう》も気の毒だと思わぬくらいの善人かつ雄弁家である。この善人にして雄弁家なるベッジパードンは倫敦《ロンドン》に生れながらまるで倫敦の事を御存じない。田舎《いなか》は無論御存じない。また御存じなさりたくもない様子だ。朝から晩まで晩から朝まで働き続けに働いてそれから四階のアッチックへ登って寝る。翌日日が出ると四階から天降《あまくだ》ってまた働き始める。息をセッセとはずまして――彼は喘息持《ぜんそくもち》である――はたから見るのも気の毒なくらいだ。さりながら彼は毫《ごう》も自分に対して気の毒な感じを持っておらぬ。Aの字かBの字か見当《けんとう》のつかぬ彼は少しも不自由らしい様子がない。我輩は朝夕この女聖人に接して敬慕の念に堪《た》えんくらいの次第であるが、このペンに捕って話しかけられた時は幸か不幸かこれは他人に判断して貰うより仕方がない。日本にいる人は英語なら誰の使う英語でも大概似たもんだと思っているかも知れないが、やはり日本と同じ事で、国々の方言があり身分の高下がありなどして、それはそれは千違万別である。しかし教育ある上等社会の言語はたいてい通ずるから差支《さしつかえ》ないが、この倫敦《ロンドン》のコックネーと称する言語に至っては我輩にはとうてい分らない。これは当地の中流以下の用うる語《こと》ばで字引にないような発音をするのみならず、前の言ばと後の言ばの句切りが分らないことほどさよう早く饒舌《しゃべ》るのである。我輩はコックネーでは毎度閉口するが、ベッジパードンのコックネーに至っては閉口を通り過してもう一遍閉口するまで少々|草臥《くたびれ》るから開口一番ちょっと休まなければやり切れないくらいのものだ。我輩がここに下宿したてにはしばしばペンの襲撃を蒙《こうむ》って恐縮したのである。やむをえずこの旨を神《かみ》さんに届け出ると、可愛想にペンは大変御小言を頂戴した。御客様にそんなぶしつけな方《ほう》があるも
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