ばかりなら不思議はないが、その字に foot note が付いている。これは英国古代の字なりとあった。「ノート」を自分の手紙へつけるのも面白いが、そのノートの文句がなおさら面白い。この御婆さんと船へ合乗をした時に、何か文章を書け、直してやるというから、日記の一節を出してよろしくおたのもうす事にした。すると大変感心したといって二三所一二字添削して返した。見ると直さなくってもけっして差支《さしつかえ》のない所を直している。そしてとんでもない間違った事が例のノート的で書いてある。この御婆さんはけっして下等な人でない。相応な身分のある中流の人である。かくのごとき人間に邂逅《かいこう》する英国だから、我下宿の妻君が生意気な事を云うのも別段相手にする必要はないが、同じ英国へ来たくらいなら今少し学問のある話せる人の家におって、汚ない狭いは苦にならないから、どうか朝夕交際がして見たい。こう云う望があるから、へー行きましょうとは答えなかったが、自分の望み通りの人で下宿人を置く処があるかそれがすこぶる疑わしい。広い世界にはあるだろう。けれどもそれに逢着《ほうちゃく》するのは難中の難事である。我輩の先生の処が一間あいておれば置てもらうのだけれども、それは間がないのだからできない相談だ。こう云う時になると西洋の新聞は便利だ。万事広告の世界なのだから下宿の広告がいくらでもある。我輩が以前下宿をさがす時 Daily Telegraph の下宿の広告欄を見た事がある。始めから終りまで読むのに三時間かかった事を記臆《きおく》している。今は「テレグラフ」を取っておらん、「スタンダード」だ。この新聞は上品な新聞だからここへ出る広告なら間違はないと思って四月十七日の分の広告欄を読み始めると、存外営業的のが多くって素人家へ置きたいと云うのが少ない。しかしいろいろのがある。「宿料低廉、風呂付、食物上等」こんなのは普通なのだ。「ハイドパークに面し地下電気へ三分地下鉄道へ五分、貴女と交際の便利あり」なんと云うのがある。「球突随意ピヤノあり gay society, late dinner」これも珍らしくない。「レートジンナー」と云うのはこの頃の流行なのだ。我輩《わがはい》などには至極《しごく》不便だ。その中で下のようなのを見出した。「立派なる室を有する寡婦及その妹と共に同宿せんとするあまり派出やかならざる紳士を求む。御望の方は○○筆墨店へ御一報を乞う」。まずここへでも一つあたってみようと云う気になったから直ぐ手紙を書いて、宿料その他委細の事を報知して貰いたい、小生の身分はかくかく職業はかくかく、なるべく低廉でなるべく愉快な処に住みたいと勝手な事をかいてやった。
その夜の十時頃自分の室《へや》で読書をしていると、室の戸をコツコツ叩くものがある。“Yes, come in.”といったら宿の亭主がニコニコして這入《はい》って来た。「実はあなたも御承知の通りこの度引越す事にきまりましたが、どうでしょう、向うはここよりも大分|奇麗《きれい》でかつ器具などもよほど上等にしますが、来ていただく訳には参りますまいか」「それは君の方で僕に是非来てくれと言うのなら……」「イエ是非といって御無理を願う訳ではありませんが、御都合がよければ――実は御馴染《おなじみ》にもなっておりますし家内や妹も大変それを希望致しますから」「君の新宅へ下宿人を置きたいという事は僕も承知していますが、あながち僕でなくっても善《よ》いだろうと思ってね」と実はこれこれだと話すと、亭主の顔が少々陰気になって来た。我輩も少々|手持無沙汰《てもちぶさた》である。「それじゃこうしよう、いずれ先方から返事が来る、来ればひとまず行って室を見て、それが気に入らなかったら君の方へ行くとしよう、ほかを探す事はやめにして。あの手紙を出す前に君の方の希望がどのくらいの程度だか分っていれば、聞き合せるまでもない御望みに応じたのだが、こうなっては仕方がない。まず先方の返事次第ですね。その代りほかはけっしてさがさない。あれがいけなければきっと君の方へ行きますよ」。亭主は御邪魔様といって下りて行った。
朝になって食堂へ行くと誰もいない。皆んな飯をすました後である。ああ今日も寝坊して気の毒だなと思って「テーブル」の上を見ると、薄紫色《うすむらさきいろ》の状袋の四隅を一分ばかり濃い菫色《すみれいろ》に染めた封書がある。我輩に来た返事に違いない。こんな表の状袋を用るくらいでは少々我輩の手に合わん高等下宿だなと思ながら「ナイフ」で開封すると、「御問合せの件に付申上候。この家はレデー(このレデーという字の下に棒が引いてある)の所有にて室内の装飾の立派なるはもちろん室々はことごとく電気灯を用いよき召使を雇い高尚優雅なる生活に適するように意を用い候。宿料は一週
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