いことがあるんだ。何でも何代目かの人が、君に裏切りとかをしたということだ。家の紋《もん》は井桁《いげた》の中に菊の紋だ。今あのへんを喜久井町というのは、僕の父親《おやじ》がつけたので、家の紋から、菊井を喜久井とかえたのだそうな。こんなことはそうさなあ、明治の始めごろの話だぜ、名主というものがまだあった時分だろうな。
名主には帯刀《たいとう》ごめんとそうでないのとの二つがあったが、僕の父親はどっちだったか忘れてしまった。あの相模屋《さがみや》という大きな質屋と酒屋との間の長屋は、僕の家の長屋で、あの時分に玄関を作れるのは名主にだけは許されていたから、名主一名お玄関様という奇抜《きばつ》な尊称を父親はちょうだいしてさかんにいばっていたんだろう。
家は明治十四五年ごろまであったのだが、兄《あに》きらが道楽者でさんざんにつかって、家なんかは人手に渡してしまったのだ。兄きは四人あった。一番上のは当時の大学で化学を研究していたが死んだ。二番目のはずいぶんふるった道楽ものだった。唐棧《とうざん》の着物なんか着て芸者買いやら吉原通いにさんざん使ってこれも死んだ。三番目のが今、無事で牛込にいる。しかし馬場下の家にではない。馬場下の家は他人の所有になってから久しいものだ。
僕はこんなずぼらな、のんきな兄らの中に育ったのだ。また従兄《いとこ》にも通人がいた。全体にソワソワと八笑人か七変人のより合いの宅《いえ》みたよに、一日|芝居《しばい》の仮声《かせい》をつかうやつもあれば、素人落語《しろうとばなし》もやるというありさまだ。僕は一番上の兄に監督せられていた。
一番上の兄だって道楽者の素質は十分もっていた。僕かね、僕だってうんとあるのさ、けれども何分貧乏とひまがないから、篤行《とっこう》の君子を気取って描《ねこ》と首っ引《ぴ》きしているのだ。子供の時分には腕白者《わんぱくもの》でけんかがすきで、よくアバレ者としかられた。あの穴八幡《あなはちまん》の坂をのぼってずっと行くと、源兵衛村《げんべえむら》のほうへ通う分岐道《わかれみち》があるだろう。あすこをもっと行くと諏訪《すわ》の森の近くに越後様《えちごさま》という殿様のお邸《やしき》があった。あのお邸の中に桑木|厳翼《げんよく》さんの阿母《あぼ》さんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子がおりおり僕の家へ遊びに来たことがあっ
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング