うと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、椽側《えんがわ》をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳《か》け出して来た。
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃《にが》さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、酔《よ》ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目の中《あた》る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際《かべぎわ》へ圧《お》し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を奇麗《きれい》に食い尽《つく》して、五六間先へ遠征《えんせい》に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し驚《おど》ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱《とこばしら》へもたれて例の琥珀《こはく》のパイプを自慢《じまん》そうに啣《くわ》えていた、赤シャツが急に起《た》って、座敷を出にかかった。向《むこ》うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞《きこ》えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸《おいか》けて帰ったんだろう。
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨《とき》の声を揚《あ》げて歓迎《かんげい》したのかと思うくらい、騒々《そうぞう》しい。そうしてある奴はなんこを攫《つか》む。その声の大きな事、まるで居合抜《いあいぬき》の稽古《けいこ》のようだ。こっちでは拳《けん》を打ってる。よっ、はっ、と夢中《むちゅう》で両手を振るところは、ダーク一座の操人形《あやつりにんぎょう》よりよっぽど上手《じょうず》だ。向うの隅《すみ》ではおいお酌《しゃく》だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰《てもちぶさた》に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜《おし》んでくれるんじゃない。みんなが酒を呑《の》んで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間声《どうまごえ》を出して何か唄《うた》い始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱《かか》えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金《かね》や太鼓《たいこ》でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って逢《あ》われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
すると、いつの間にか傍《そば》へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺《はな》し家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着《とんじゃく》なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫《ぎだゆう》の真似《まね》をやる。おきなはれやと芸者は平手で野だの膝《ひざ》を叩いたら野だは恐悦《きょうえつ》して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊《き》の国を踴《おど》るから、一つ弾《ひ》いて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
向うの方で漢学のお爺《じい》さんが歯のない口を歪《ゆが》めて、そりゃ聞えません伝兵衛《でんべい》さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済《すま》したが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕《つら》まえて近頃《ちかごろ》こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻《かげつまき》、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可《はんか》の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞《けんぶ》をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟《ふみやぶるせんざんばんがくのけむり》と真中《まんなか》へ出て独りで隠《かく》し芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊《き》の国を済まして、かっぽれを済まして、棚《たな》の達磨《だるま》さんを済して丸裸《まるはだか》の越中褌《えっちゅうふんどし》一つになって、棕梠箒《しゅろぼうき》を小脇に抱《か》い込んで、日清談判|破裂《はれつ》して……と座敷中練りあるき出した。まるで気違《きちが》いだ。
おれはさっきから苦しそうに袴も脱《ぬ》がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴《はだかおどり》まで羽織袴で我慢《がまん》してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮《えんりょ》なくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。気狂会《きちがいかい》です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞《ふさ》いだ。おれはさっきから肝癪《かんしゃく》が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨《げんこつ》で、野だの頭をぽかりと喰《く》わしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体《てい》で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お撲《ぶ》ちになったのは情ない。この吉川をご打擲《ちょうちゃく》とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動《そうどう》が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋《くびすじ》をうんと攫《つか》んで引き戻《もど》した。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩《ねじ》ったら、すとんと倒《たお》れた。あとはどうなったか知らない。途中《とちゅう》でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
十
祝勝会で学校はお休みだ。練兵場《れんぺいば》で式があるというので、狸《たぬき》は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人《ひとり》としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が隊伍《たいご》を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か二人《ふたり》ずつ監督《かんとく》として割り込《こ》む仕掛《しか》けである。仕掛《しかけ》だけはすこぶる巧妙《こうみょう》なものだが、実際はすこぶる不手際である。生徒は小供《こども》の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる奴等《やつら》だから、職員が幾人《いくたり》ついて行ったって何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨《とき》の声を揚《あ》げたり、まるで浪人《ろうにん》が町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌《しゃべ》ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云《い》ったって聞きっこない。喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。おれは宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は大違《おおちが》いである。下宿の婆《ばあ》さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎《かんごろう》である。生徒があやまったのは心《しん》から後悔《こうかい》してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡《ずる》い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり詫《わ》びたりするのを、真面目《まじめ》に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿《ばか》と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差《さ》し支《つか》えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩《たた》きつけなくてはいけない。
おれが組と組の間にはいって行くと、天麩羅《てんぷら》だの、団子《だんご》だの、と云う声が絶えずする。しかも大勢だから、誰《だれ》が云うのだか分らない。よし分ってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱《しんけいすいじゃく》だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい云うに極《き》まってる。こんな卑劣《ひれつ》な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底《とうてい》直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似《まね》をしなければならなく、なるかも知れない。向《むこ》うでうまく言い抜《ぬ》けられるような手段で、おれの顔を汚《よご》すのを抛《ほう》っておく、樗蒲一《ちょぼいち》はない。向こうが人ならおれも人だ。生徒だって、子供だって、ずう体はおれより大きいや。だから刑罰《けいばつ》として何か返報をしてやらなくっては義理がわるい。ところがこっちから返報をする時分に尋常《じんじょう》の手段で行くと、向うから逆捩《さかねじ》を食わして来る。貴様がわるいからだと云うと、初手から逃《に》げ路《みち》が作ってある事だから滔々《とうとう》と弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃《こうげき》する。もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩《けんか》のように、見傚《みな》されてしまう。大変な不利益だ。それなら向うのやるなり、愚迂多良童子《ぐうたらどうじ》を極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく云えば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて捕《つら》まえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。そうなっては江戸《えど》っ子も駄目《だめ》だ。駄目だが一年もこうやられる以上は、おれも人間だから駄目でも何でもそうならなくっちゃ始末がつかない。どうしても早く東京へ帰って清《きよ》といっしょになる
前へ
次へ
全21ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング