れるような事を云った覚えはない。今日《こんにち》ただ今に至るまでこれでいいと堅《かた》く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励《しょうれい》しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋《じゅんすい》な人を見ると、坊《ぼ》っちゃんだの小僧《こぞう》だのと難癖《なんくせ》をつけて軽蔑《けいべつ》する。それじゃ小学校や中学校で嘘《うそ》をつくな、正直にしろと倫理《りんり》の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論|悪《わ》るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落《らいらく》なように見えても、淡泊なように見えて
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