赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有《ありがと》うと受けておおきなさいや」
「年寄《としより》の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
 婆さんはだまって引き込んだ。爺《じい》さんは呑気《のんき》な声を出して謡《うたい》をうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩|飽《あ》きずに唸《うな》る爺さんの気が知れない。おれは謡どころの騒《さわ》ぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳《は》ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡|下《くんだ》りまで落ちさせるとは一体どう云う了見《りょうけん》だろう。太宰権帥《だざいごんのそつ》でさえ博多《はかた》近辺で落ちついたものだ。河合又五郎《かあいまたごろう》だって相良《さがら》でとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来な
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