ほどの度胸はない。
 それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動《そうどう》で蚊帳の中はぶんぶん唸《うな》っている。手燭《てしょく》をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手《つりて》をはずして、長く畳《たた》んでおいて部屋の中で横竪《よこたて》十文字に振《ふる》ったら、環《かん》が飛んで手の甲《こう》をいやというほど撲《ぶ》った。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。よっぽど辛防《しんぼう》強い朴念仁《ぼくねんじん》がなるんだろう。おれには到底やり切れない。それを思うと清《きよ》なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆《ばあ》さんだが、人間としてはすこぶる尊《たっ》とい。今まではあんなに世話になって別段|難有《ありがた》いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越後《えちご》の笹飴《ささあめ》が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分《じゅうぶん》ある。清はおれの事を欲がなくって、真直《まっすぐ》な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。
 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然《とつぜん》おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子《ひょうし》を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨《とき》の声が起《おこ》った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端《とたん》に、ははあさっきの意趣返《いしゅがえ》しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚《おぼえ》があるだろう。本来なら寝てから後悔《こうかい》してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛《せいしゅく》に寝ているべきだ。それを何だこの騒《さわ》ぎは。寄宿舎を建てて豚《ぶた》でも飼っておきあしまいし。気狂《きちが》いじみた真似《まね》も大抵《たいてい》にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段《はしごだん》を三股半《みまたはん》に二階まで躍《おど》り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分《わか》らないが、人気《ひとけ》のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へ貫《つらぬ》いた廊下《ろうか》には鼠《ねずみ》一|匹《ぴき》も隠《かく》れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢《ゆめ》を見る癖があって、夢中《むちゅう》に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢《いきおい》で尋《たず》ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中《じゅう》の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中《まんなか》で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響《ひび》いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板《ゆかいた》を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とアっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳《か》けだした。おれの通る路《みち》は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標《めじるし》だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅《かた》い大きなものに向脛《むこうずね》をぶつけて、あ痛い[#「あ痛い」に傍点]が頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛《ほう》り出された。こん畜生《ちきしょう》と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森《しん》としている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極《き》めて寝室《しんしつ》の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かな
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