だって居るのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠《しょうこ》の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁《はんばく》するのはむずかしいね」
「厄介《やっかい》だな。それじゃ濡衣《ぬれぎぬ》を着るんだね。面白《おもしろ》くもない。天道是耶非《てんどうぜかひ》かだ」
「まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉《ゆ》の町で取って抑《おさ》えるより仕方がないだろう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ」
「それもよかろう。おれは策略は下手《へた》なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする」
 俺と山嵐はこれで分《わか》れた。赤シャツが果《はた》たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底《とうてい》智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力《わんりょく》でなくっちゃ駄目《だめ》だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰《つま》りは腕力だ。
 あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披《ひら》いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行って狸《たぬき》に催促《さいそく》すると、あしたぐらい出すでしょうと云う。明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと云う答だ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽《きょぎ》の記事を掲げた田舎新聞一つ詫《あや》まらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭《せつゆ》を加えた。新聞がそんな者なら、一日も早く打《ぶ》っ潰《つぶ》してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、泥鼈《すっぽん》に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日《こんにち》ただ今狸の説明によって始めて承知|仕《つかまつ》った。
 それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然《ふんぜん》とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと云うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座《そくざ》に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾《かたむ》けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと云われたかと尋《たず》ねるから、いや云われない。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決《しょけつ》してくれと云われたとの事だ。
「そんな裁判はないぜ。狸は大方|腹鼓《はらつづみ》を叩《たた》き過ぎて、胃の位置が顛倒《てんどう》したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴《おど》りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと云うがいい。なんで田舎《いなか》の学校はそう理窟《りくつ》が分らないんだろう。焦慮《じれった》いな」
「それが赤シャツの指金《さしがね》だよ。おれと赤シャツとは今までの行懸《ゆきがか》り上|到底《とうてい》両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化《ごまか》されると考えてるのさ」
「なお悪いや。誰《だれ》が両立してやるものか」
「それに先だって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着《とうちゃく》しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし支《つか》えるからな」
「それじゃおれを間《あい》のくさびに一席|伺《うかが》わせる気なんだな。こん畜生《ちくしょう》、だれがその手に乗るものか」

 翌日《あくるひ》おれは学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
「何で私に辞表を出せと云わないんですか」
「へえ?」と狸はあっけに取られている。
「堀田には出せ、私には出さないで好《い》いと云う法がありますか」
「それは学校の方の都合《つごう》で……」
「その都合が間違《まちが》ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明が出来かねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
 
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