ると昨日《きのう》と同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
今日の新聞に辟易《へきえき》して学校を休んだなどと云われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくる奴《やつ》も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄《てがら》で、――名誉《めいよ》のご負傷でげすか、と送別会の時に撲《なぐ》った返報と心得たのか、いやに冷《ひや》かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも舐《な》めていろと云ってやった。するとこりゃ恐入《おそれい》りやした。しかしさぞお痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴《どな》りつけてやったら、向《むこ》う側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣《とな》りの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻に至っては、紫色《むらさきいろ》に膨張《ぼうちょう》して、掘《ほ》ったら中から膿《うみ》が出そうに見える。自惚《うぬぼれ》のせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどく遣《や》られている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つ塊《かた》まっている。ほかの奴は退屈《たいくつ》にさえなるときっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口で云うが、心のうちではこの馬鹿《ばか》がと思ってるに相違《そうい》ない。それでなければああいう風に私語合《ささやきあ》ってはくすくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をもって迎《むか》えた。先生|万歳《ばんざい》と云うものが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の焼点《しょうてん》となってるなかに、赤シャツばかりは平常の通り傍《そば》へ来て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込《こ》む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を誘《さそ》いに行ったから、こんな事が起《おこ》ったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件についてはあくまで尽力《じんりょく》するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。おれには心配なんかない、先で免職《めんしょく》をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消《とりけし》の手続きはしたと云うから、やめた。
おれと山嵐は校長と教頭に時間の合間を見計《みはから》って、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨《うら》みを抱《いだ》いて、あんな記事をことさらに掲《かか》げたんだろうと論断した。赤シャツはおれ等の行為《こうい》を弁解しながら控所《ひかえじょ》を一人ごとに廻《まわ》ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴《ふいちょう》していた。みんなは全く新聞屋がわるい、怪《け》しからん、両君は実に災難だと云った。
帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭《くさ》いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと云うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、捲《ま》き込《こ》んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴《そぼう》なようだが、おれより智慧《ちえ》のある男だと感心した。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物《かんぶつ》だ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの云う事をそう容易《たやす》く聴《き》くかね」
「聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ」
「友達が居るのかい」
「居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね」
「わるくすると、遣《や》られるかも知れない」
「そんなら、おれは明日《あした》辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼《たの》ん
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