自分の金側《きんがわ》を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍《そば》へ腰を卸《おろ》した。女の方はちっとも見返らないで杖《つえ》の上に顋《あご》をのせて、正面ばかり眺《なが》めている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
やがて、ピューと汽笛《きてき》が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾《わ》れ勝《がち》に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田《すみた》まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発《ふんぱつ》して白切符を握《にぎ》ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵《たいてい》は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押《お》したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇《ちゅうちょ》の体《てい》であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
温泉へ着いて、三階から、浴衣《ゆかた》のなりで湯壺《ゆつぼ》へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉《のど》が塞《ふさ》がって饒舌《しゃべ》れない男だが、平常《ふだん》は随分《ずいぶん》弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰《なぐさ》めてやるのは、江戸《えど》っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、え[#「え」に傍点]とかいえ[#「いえ」に傍点]とかぎりで、しかもそのえ[#「え」に傍点]といえ[#「いえ」に傍点]が大分|面倒《めんどう》らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙《めんこうむ》った。
湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂《ふろ》の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳《やなぎ》が植《うわ》って、柳の枝《えだ》が丸《ま》るい影を往来の中へ落《おと》している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼《ぎろう》である。山門のなかに遊廓《ゆうかく》があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾《のれん》をかけた、小さな格子窓《こうしまど》の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯《まるぢょうちん》に汁粉《しるこ》、お雑煮《ぞうに》とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端《のきば》に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁《いいなずけ》が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚《おろ》か、三日ぐらい断食《だんじき》しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜《とうがん》の水膨《みずぶく》れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊《たんぱく》だと思った山嵐は生徒を煽動《せんどう》したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼《せま》るし。厭味《いやみ》で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所《よそ》ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化《ごまか》したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖《なんくせ》をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入《い》れ替《かわ》ったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根《はこね》の向うだから化物《ばけもの》が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
おれは、性来《しょうらい》構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒《ぶっそう》に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに
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