芋を平げて、机の抽斗《ひきだし》から生卵を二つ出して、茶碗《ちゃわん》の縁《ふち》でたたき割って、ようやく凌《しの》いだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出懸《でか》けようと、例の赤手拭《あかてぬぐい》をぶら下げて停車場《ていしゃば》まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島《しきしま》を吹かしていると、偶然《ぐうぜん》にもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。平常《ふだん》から天地の間に居候《いそうろう》をしているように、小さく構えているのがいかにも憐《あわ》れに見えたが、今夜は憐れどころの騒《さわ》ぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日《あした》から結婚《けっこん》さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢《いせい》よく席を譲《ゆず》ると、うらなり君は恐《おそ》れ入った体裁で、いえ構《かも》うておくれなさるな、と遠慮《えんりょ》だか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、草臥《くたび》れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお邪魔《じゃま》を致《いた》しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本《にっぽん》が困るだろうと云うような面を肩《かた》の上へ載《の》せてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸《たぬき》もいる。皆々《みなみな》それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人《おとな》しくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡《なび》くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様《だんなさま》が出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫《じょうぶ》のようですな」
「ええ瘠《や》せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞《きこ》えたから、何心なく振《ふ》り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並《なら》んで切符《きっぷ》を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶《すいしょう》の珠《たま》を香水《こうすい》で暖《あっ》ためて、掌《てのひら》へ握《にぎ》ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端《とたん》に、うらなり君の事は全然《すっかり》忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然《とつぜん》おれの隣《となり》から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳《か》け込《こ》んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬《ちりめん》の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖《きんぐさ》りをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物《にせもの》である。赤シャツは誰《だれ》も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符|売下所《うりさげじょ》の前に話している三人へ慇懃《いんぎん》にお辞儀《じぎ》をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足《ねこあし》にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、
前へ 次へ
全53ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング