自慢《じまん》になるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒《どろぼう》の稽古《けいこ》じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭《らっぱ》がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛《でか》けた。
授業の都合《つごう》で一時間目は少し後《おく》れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻《ちこく》したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金《ばっきん》を出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達《せんだっ》て通町《とおりちょう》で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外|真面目《まじめ》でいるので、つまらない冗談《じょうだん》をするなと銭をおれの机の上に掃《は》き返した。おや山嵐の癖《くせ》にどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁《いんえん》がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣《ひれつ》をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤《まっか》になってるのにふんという理窟《りくつ》があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主《ていしゅ》が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝《けさ》あすこへ寄って詳《くわ》しい話を聞いてきたんだ」
おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余
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