これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭《くさ》いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換《か》えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化《ごまか》したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子《かし》や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣《や》らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄《すま》したものでお兄様《あにいさま》はお父様《とうさま》が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固《がんこ》だけれども、そんな依怙贔負《えこひいき》はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺《おぼ》れていたに違《ちが》いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢《あ》っては叶《かな》わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見《りょうけん》もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車《てぐるま》へ乗って、立派な玄関《げんかん》のある家をこしらえるに相違《そうい》ないと云った。
それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所《いっしょ》になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰《く》り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町《こうじまち》ですか麻布《あざぶ》ですか、お庭へぶらんこをお
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