の来たのを大変|歓迎《かんげい》しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢《がまん》だと思って、辛防《しんぼう》してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕《ぼく》が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒《めんどう》な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺《うかが》うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊《たんぱく》には行《ゆ》かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏《とぼ》しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書《りれきしょ》にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰《だれ》が乗じたって怖《こわ》くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人《おとな》しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫《とも》の方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰《だ》れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠《しょうこ》のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等《ぼくら》も君を呼んだ甲斐《かい》がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好《い》いんでしょう」
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑わ
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