つ》に違《ちが》いない。飯は食ったが、まだ日が暮《く》れないから寝《ね》る訳に行かない。ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして、外へ出るのはいい事だか、悪《わ》るい事だかしらないが、こうつくねんとして重禁錮《じゅうきんこ》同様な憂目《うきめ》に逢《あ》うのは我慢の出来るもんじゃない。始めて学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょっと用達《ようたし》に出たと小使《こづかい》が答えたのを妙《みょう》だと思ったが、自分に番が廻《まわ》ってみると思い当る。出る方が正しいのだ。おれは小使にちょっと出てくると云ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと出掛《でか》けた。赤手拭《あかてぬぐい》は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
 それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方《ひぐれがた》になったから、汽車へ乗って古町《こまち》の停車場《ていしゃば》まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。すたすた急ぎ足にやってきたが、擦《す》れ違《ちが》った時おれの顔を見たから、ちょっと挨拶《あいさつ》をした。すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえ[#「なかったですかねえ」に傍点]と真面目《まじめ》くさって聞いた。なかったですかねえもないもんだ。二時間前おれに向って今夜は始めての宿直ですね。ご苦労さま。と礼を云ったじゃないか。校長なんかになるといやに曲りくねった言葉を使うもんだ。おれは腹が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと云い捨てて済ましてあるき出した。竪町《たてまち》の四つ角までくると今度は山嵐《やまあらし》に出っ喰《く》わした。どうも狭《せま》い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が無暗《むやみ》に出てあるくなんて、不都合《ふつごう》じゃないか」と云った。「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張《いば》ってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒《めんどう》だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨で
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