一人《ひとり》で喋舌《しゃべ》るから、こっちは困《こ》まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風《むかしふう》の女だから、自分とおれの関係を封建《ほうけん》時代の主従《しゅじゅう》のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点《がてん》したものらしい。甥こそいい面《つら》の皮だ。
いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋《たず》ねたら、北向きの三畳に風邪《かぜ》を引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊《ぼ》っちゃんいつ家《うち》をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子《ようす》で、胡麻塩《ごましお》の鬢《びん》の乱れをしきりに撫《な》でた。あまり気の毒だから「行《ゆ》く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と慰《なぐさ》めてやった。それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後《えちご》の笹飴《ささあめ》が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根《はこね》のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。
出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中《とちゅう》小間物屋で買って来た歯磨《はみがき》と楊子《ようじ》と手拭《てぬぐい》をズックの革鞄《かばん》に入れてくれた。そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌《きげん》よう」と小さな声で云った。目に涙《なみだ》が一杯《いっぱい》たまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫《だいしょうぶ》だろうと思って、窓から首を出して、振り向い
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