》いと思うのは間違っている。茶の湯を学ぶ彼らはいらざる儀式に貴重な時間を費やして、一々に師匠の云う通りになる。趣味は茶の湯より六《む》ずかしいものじゃ。茶坊主に頭を下げる謙徳《けんとく》があるならば、趣味の本家《ほんけ》たる学者の考はなおさら傾聴せねばならぬ。
「趣味は人間に大切なものである。楽器を壊《こぼ》つものは社会から音楽を奪う点において罪人である。書物を焼くものは社会から学問を奪う点において罪人である。趣味を崩《くず》すものは社会そのものを覆《くつが》えす点において刑法の罪人よりもはなはだしき罪人である。音楽はなくとも吾人は生きている、学問がなくても吾人はいきている。趣味がなくても生きておられるかも知れぬ。しかし趣味は生活の全体に渉《わた》る社会の根本要素である。これなくして生きんとするは野に入って虎と共に生きんとすると一般である。
「ここに一人《いちにん》がある。この一人が単に自己の思うようにならぬと云う源因のもとに、多勢《たぜい》が朝に晩に、この一人を突つき廻わして、幾年の後《のち》この一人の人格を堕落せしめて、下劣なる趣味に誘い去りたる時、彼らは殺人より重い罪を犯したのである。人を殺せば殺される。殺されたものは社会から消えて行く。後患《こうかん》は遺《のこ》さない。趣味の堕落したものは依然として現存する。現存する以上は堕落した趣味を伝染せねばやまぬ。彼はペストである。ペストを製造したものはもちろん罪人である。
「趣味の世界にペストを製造して罰せられんのは人殺しをして罰せられんのと同様である。位地の高いものはもっともこの罪を犯《おか》しやすい。彼らは彼らの社会的地位からして、他に働きかける便宜《べんぎ》の多い場所に立っている。他に働きかける便宜を有して、働きかける道を弁《わきま》えぬものは危険である。
「彼らは趣味において専門の学徒に及ばぬ。しかも学徒以上他に働きかけるの能力を有している。能力は権利ではない。彼らのあるものはこの区別さえ心得ておらん。彼らの趣味を教育すべくこの世に出現せる文学者を捕えてすらこれを逆《さか》しまに吾意のごとくせんとする。彼らは単に大道徳を忘れたるのみならず、大不道徳を犯して恬然《てんぜん》として社会に横行しつつあるのである。
「彼らの意のごとくなる学徒があれば、自己の天職を自覚せざる学徒である。彼らを教育する事の出来ぬ学徒があれば腰の抜けたる学徒である。学徒は光明を体せん事を要す。光明より流れ出ずる趣味を現実せん事を要す。しかしてこれを現実《げんじつ》せんがために、拘泥《こうでい》せざらん事を要す。拘泥せざらんがために解脱《げだつ》を要す」
高柳君は雑誌を開いたまま、茫然《ぼうぜん》として眼を挙《あ》げた。正面の柱にかかっている、八角時計がぼうんと一時を打つ。柱の下の椅子《いす》にぽつ然《ねん》と腰を掛けていた小女郎《こじょろう》が時計の音と共に立ち上がった。丸テーブルの上には安い京焼《きょうやき》の花活《はないけ》に、浅ましく水仙を突きさして、葉の先が黄ばんでいるのを、いつまでもそのままに水をやらぬ気と見える。小女郎は水仙の花にちょっと手を触れて、花活《はないけ》のそばにある新聞をとり上げた。読むかと思ったら四つに畳んで傍《かたわら》に置いた。この女は用もないのに立ち上がったのである。退屈のあまり、ぼうんを聞いて器械的に立ち上がったのである。羨《うらや》ましい女だと高柳君はすぐ思う。
菊人形の収入についての議論は片づいたと見えて、二人の学生は煙草《たばこ》をふかして往来を見ている。
「おや、富田《とみた》が通る」と一人が云う。
「どこに」と一人が聞く。富田君は三寸ばかり開いていた硝子戸《ガラスど》の間をちらと通り抜けたのである。
「あれは、よく食う奴《やつ》じゃな」
「食う、食う」と答えたところによるとよほど食うと見える。
「人間は食う割《わり》に肥《ふと》らんものだな。あいつはあんなに食う癖にいっこう肥《こ》えん」
「書物は沢山読むが、ちっとも、えろうならんのがおると同じ事じゃ」
「そうよ。御互に勉強はなるべくせん方がいいの」
「ハハハハ。そんなつもりで云ったんじゃない」
「僕はそう云うつもりにしたのさ」
「富田は肥《ふと》らんがなかなか敏捷《びんしょう》だ。やはり沢山食うだけの事はある」
「敏捷な事があるものか」
「いや、この間四丁目を通ったら、後ろから出し抜けに呼ぶものがあるから、振り反ると富田だ。頭を半分|刈《か》ったままで、大きな敷布のようなものを肩から纏《まと》うている」
「元来どうしたのか」
「床屋から飛び出して来たのだ」
「どうして」
「髪を刈っておったら、僕の影が鏡に写ったものだから、すぐ馳《か》け出したんだそうだ」
「ハハハハそいつは驚ろいた」
「おれも驚ろいた。そうして尚志会《しょうしかい》の寄附金を無理に取って、また床屋へ引き返したぜ」
「ハハハハなるほど敏捷《びんしょう》なものだ。それじゃ御互になるべく食う事にしよう。敏捷にせんと、卒業してから困るからな」
「そうよ。文学士のように二十円くらいで下宿に屏息《へいそく》していては人間と生れた甲斐《かい》はないからな」
高柳君は勘定をして立ち上った。ありがとうと云う下女の声に、文芸倶楽部の上につっ伏していた書生が、赤い眼をとろつかせて、睨《にら》めるように高柳君を見た。牛の乳のなかの酸に中毒でもしたのだろう。
六
「私は高柳周作《たかやなぎしゅうさく》と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今まで何度もある。しかしこの時のように快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、その他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。せんだって中野のおやじに紹介された時などはいよいよもって丁寧に頭をさげた。しかし頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じている。位地、年輩、服装、住居が睥睨《へいげい》して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓首《とんしゅ》するのである。道也《どうや》先生に対しては全く趣《おもむき》が違う。先生の服装は中野君の説明したごとく、自分と伯仲《はくちゅう》の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点において自分の室《へや》と同様である。先生の机は白木なるの点において、丸裸なるの点において、またもっとも無趣味に四角張ったる点において自分の机と同様である。先生の顔は蒼《あお》い点において瘠《や》せた点において自分と同様である。すべてこれらの諸点において、先生と弟《てい》たりがたく兄《けい》たりがたき間柄《あいだがら》にありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼《せ》まられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにもかかわらず、こっちの好意をもって下げるのである。同類に対する愛憐《あいれん》の念より生ずる真正の御辞儀《おじぎ》である。世間に対する御辞儀はこの野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極《きわ》めたる虚偽《きょぎ》の御辞儀でありますと断わりたいくらいに思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚《さと》ったかどうか知らぬ。
「ああ、そうですか、私《わたし》が白井道也で……」とつくろった景色《けしき》もなく云う。高柳君にはこの挨拶振《あいさつぶ》りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開《あ》けて、一刻も早く同類|相憐《あいあわれ》むの間柄になりたい。しかしあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一昔《ひとむか》し前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、そのためにかく零落《れいらく》したのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんなところになるとすこぶる勇気に乏《とぼ》しい。謝罪かたがた尋ねはしたが、いよいよと云う段になると少々怖《こわ》くて罪滅《つみほろぼ》しが出来かねる。心にいろいろな冒頭を作って見たが、どれもこれもきまりがわるい。
「だんだん寒くなりますね」と道也先生は、こっちの了簡《りょうけん》を知らないから、超然たる時候の挨拶をする。
「ええ、だいぶ寒くなったようで……」
高柳君の脳中の冒頭はこれでまるで打ち壊されてしまった。いっその事自白はこの次にしようという気になる。しかし何だか話して行きたい気がする。
「先生|御忙《おいそ》がしいですか……」
「ええ、なかなか忙がしいんで弱ります。貧乏|閑《ひま》なしで」
高柳君はやり損《そく》なったと思う。再び出直さねばならん。
「少し御話を承《うけたまわ》りたいと思って上がったんですが……」
「はあ、何か雑誌へでも御載《おの》せになるんですか」
あてはまたはずれる。おれの態度がどうしても向《むこう》には酌《く》み取れないと見えると青年は心中少しく残念に思った。
「いえ、そうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが……」
「いえ邪魔じゃありません。談話と云うからちょっと聞いて見たのです。――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ」
「いいえ」と青年は妙な言葉をもって先生の辞《ことば》を否定した。
「あなたは何の学問をなさるですか」
「文学の方を――今年大学を出たばかりです」
「はあそうですか。ではこれから何かおやりになるんですね」
「やれれば、やりたいのですが、暇《ひま》がなくって……」
「暇はないですね。わたしなども暇がなくって困っています。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか」
「それは人に依《よ》りはしませんか」と高柳君はおれが暇さえあればと云うところを暗《あん》にほのめかした。
「人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋《たび》の影がさす。
「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。
「しかし衣食のために勢力をとられてしまって……」
「それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです」
青年は唖然《あぜん》として、道也を見た。道也は孔子様のように真面目《まじめ》である。馬鹿にされてるんじゃたまらないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされたように聞き取る男である。
「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑《すべ》らして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。
「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」と相手までも平気に捲《ま》き込もうとする。
「なぜですか」と二三歩逃げて、振り向きながら佇《たたず》む狐のように探《さぐ》りを入れた。
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか」
「ええやりました」と力を入れる。すべて他の点に関しては断乎《だんこ》たる返事をする資格のない高柳君は自己の本領においては何人《なんびと》の前に出てもひるまぬつもりである。
「それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜです[#「なぜです」に傍点]と突き込むのも、何だか伏兵《ふくへい》に罹《かか》る気持がして厭《いや》である。ちょっと手のつけようがないので、黙って相手の顔を見た。顔を見ているうちに、先方でどうか解決してくれるだろうと、暗《あん》に催促の意を籠《こ》めて見たのである。
「分りましたか」と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。
「どうも」と折れざるを得ない。
「だってそうじゃありませんか。―
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