―文学はほかの学問とは違うのです」と道也先生は凛然《りんぜん》と云い放った。
「はあ」と高柳君は覚えず応答をした。
「ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害《そがい》するものが敵である。たとえば貧《ひん》とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲酸《ひさん》な事情とか、不和とか、喧嘩《けんか》とかですね。これがあると学問が出来ない。だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了簡《りょうけん》でいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番|呑気《のんき》な閑日月《かんじつげつ》がなくてはならんように思われていた。おかしいのは当人自身までがその気でいた。しかしそれは間違です。文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁《きゅうしゅう》にあれ、凡《およ》そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞《な》め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっているような閑人《ひまじん》じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面《おくめん》なく取り捌《さば》いたり、感得したりする普通以上の吾々を指《さ》すのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです、だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。したがってほかの学問ができ得る限り研究を妨害する事物を避けて、しだいに人世に遠《とおざ》かるに引き易《か》えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります」
「なるほど」と高柳君は妙な顔をして云った。
「あなたは、そうは考えませんか」
そう考えるにも、考えぬにも生れて始めて聞いた説である。批評的の返事が出るときは大抵用意のある場合に限る。不意撃《ふいうち》に応ずる事が出来れば不意撃ではない。
「ふうん」と云って高柳君は首を低《た》れた。文学は自己の本領である。自己の本領について、他人が答弁さえ出来ぬほどの説を吐《は》くならばその本領はあまり鞏固《きょうこ》なものではない。道也先生さえ、こんな見すぼらしい家に住んで、こんな、きたならしい着物をきているならば、おれは当然二十円五十銭の月給で沢山だと思った。何だか急に広い世界へ引き出されたような感じがする。
「先生はだいぶ御忙《おいそが》しいようですが……」
「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興《すいきょう》な苦労をします。ハハハハ」と笑う。これなら苦労が苦労にたたない。
「失礼ながら今はどんな事をやっておいでで……」
「今ですか、ええいろいろな事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね」
「随分御面倒でしょう」
「面倒と云いや、面倒ですがね。そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気《ばかげ》ています。まあいい加減に書いては来ますが」
「なかなか面白い事を云うのがおりましょう」と暗《あん》に中野春台《なかのしゅんたい》の事を釣り出そうとする。
「面白いの何のって、この間はうま[#「うま」に傍点]、うま[#「うま」に傍点]の講釈を聞かされました」
「うま[#「うま」に傍点]、うま[#「うま」に傍点]ですか?」
「ええ、あの小供《こども》が食物《たべもの》の事をうまうまと云いましょう。あれの来歴ですね。その人の説によると小供が舌が回り出してから一番早く出る発音がうまうま[#「うまうま」に傍点]だそうです。それでその時分は何を見てもうまうま、何を見なくってもうまうまだからつまりは何《なに》にもつけなくてもいいのだそうだが、そこが小供に取って一番大切なものは食物だから、とうとう食物の方で、うまうまを専有してしまったのだそうです。そこで大人《おとな》もその癖がのこって、美味なものをうまい[#「うまい」に傍点]と云うようになった。だから人生の煩悶《はんもん》は要するに元へ還《かえ》ってうまうま[#「うまうま」に傍点]の二字に帰着すると云うのです。何だか寄席《よせ》へでも行ったようじゃないですか」
「馬鹿にしていますね」
「ええ、大抵は馬鹿にされに行くんですよ」
「しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね」
「なに、失敬だっていいでさあ、どうせ、分らないんだから。そうかと思うとね。非常に真面目《まじめ》だけれどもなかなか突飛《とっぴ》なのがあってね。この間は猛烈な恋愛論を聞かされました。もっとも若い人ですがね」
「中野じゃありませんか」
「君、知ってますか。ありゃ熱心なものだった」
「私の同級生です」
「ああ、そうですか。中野春台とか云う人ですね。よっぽど暇があるんでしょう。あんな事を真面目に考えているくらいだから」
「金持ちです」
「うん立派な家《うち》にいますね。君はあの男と親密なのですか」
「ええ、もとはごく親密でした。しかしどうもいかんです。近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんで、あんまり交際してくれないのです」
「いいでしょう。交際しなくっても。損にもなりそうもない。ハハハハハ」
「何だかしかし、こう、一人坊《ひとりぼ》っちのような気がして淋しくっていけません」
「一人坊っちで、いいでさあ」と道也先生またいいでさあ[#「いいでさあ」に傍点]を担《かつ》ぎ出した。高柳君はもう「先生ならいいでしょう」と突き込む勇気が出なかった。
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違《なかたがい》になる事が出来て来ます。妻《さい》にまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます」
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」
高柳君はだまって下を向いた。
「わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇《ヤソ》や孔子《こうし》ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気《のんき》に暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽文学者《にせぶんがくしゃ》ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」
高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木《きょうぼく》にうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋《つな》いでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。
「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋《さび》し気《げ》に笑った。
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在《おあ》りか」
「母だけ田舎《いなか》にいます」
「おっかさんだけ?」
「ええ」
「御母《おっか》さんだけでもあれば結構だ」
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖《ふ》えちゃ、ちょっと、口を得《う》るのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。
「ええ?」と道也は何も知らぬ気《げ》である。
「先生は――あの――江湖雑誌《こうこざっし》を御編輯《ごへんしゅう》になると云う事ですが、本当にそうなんで」
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱《げだつ》と拘泥《こうでい》と云うのがありましたが、あの憂世子《ゆうせいし》と云うのは……」
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出《ひょうしゅつ》したようなもので、利益を享《う》けた上に痛快に感じました」
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下|唯一《ゆいいつ》の知己かも知れない。ハハハハ」
「そんな事はないでしょう」と高柳君はやや真面目《まじめ》に云った。
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞《ほ》めるつもりです」
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望《ほんもう》だが――随分|頓珍漢《とんちんかん》な事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……」
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴《やつ》ですね」
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水《てんめいすい》とか云う名ですがね……」
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためですか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向《あおむ》けば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう」
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭《ひげ》でも生《は》やしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです」
「実に失敬な奴ですね。全体|何物《なにもの》でしょう」
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気《のんき》なものさハハハハ」
「どうも驚ろいちまう。私なら撲《な》ぐってやる」
「そんなのを撲った日にゃ片《かた》っ端《ぱし》から撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ」
高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋《たび》の影はいつしか消えて、開《あ》け放《はな》った一枚の間から、靴刷毛《くつはけ》の端《はじ》が見える。椽《えん》は泥だらけである。手《て》の平《ひら》ほどな庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧《ひん》を照らしている。自然をどうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美くしいと感じた。杉垣《すぎがき》の遥《はる》か向《むこう》に大きな柿の木が見えて、空のなかへ五分珠《ごぶだま》の珊瑚《さんご》をかためて嵌《は》め込んだように奇麗に赤く映る。鳴子《なるこ》の音がして烏《からす》がぱっと飛んだ。
「閑静な御住居《おすまい》ですね」
「ええ。蛸寺《たこでら》の和尚《おしょう》が烏を追っているんです。毎日がらんがらん云わして、烏ばかり追っている。ああ云う生涯《しょうがい》も閑静でいいな」
「大変たくさん柿が生《な》っていますね」
「渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。―
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