の中を何と思ってるだろう」
「何とも思うものかね。ただああやって暮らしているのさ」
「羨《うら》やましいな。どうかして――どうもいかんな」
「あんなものが羨しくっちゃ大変だ。そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。さあもう一杯景気よく飲んだ」
「あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔命《ほんめい》に疲れちゃ、少しも卒業のありがた味はない」
「そうかなあ、僕なんざ嬉《うれ》しくってたまらないがなあ。我々の生命はこれからだぜ。今からそんな心細い事を云っちゃあしようがない」
「我々の生命はこれからだのに、これから先が覚束《おぼつか》ないから厭《いや》になってしまうのさ」
「なぜ? 何もそう悲観する必要はないじゃないか、大《おおい》にやるさ。僕もやる気だ、いっしょにやろう。大に西洋料理でも食って――そらビステキが来た。これでおしまいだよ。君ビステキの生焼《なまやき》は消化がいいって云うぜ。こいつはどうかな」と中野君は洋刀《ナイフ》を揮《ふる》って厚切《あつぎ》りの一片《いっぺん》を中央《まんなか》から切断した。
「なあるほど、赤い。赤いよ君、見たまえ。血が出るよ」
高柳君は何にも答えずにむしゃむしゃ赤いビステキを食い始めた。いくら赤くてもけっして消化がよさそうには思えなかった。
人にわが不平を訴えんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把《ちゅうとはんぱ》な慰藉《いしゃ》を与えらるるのは快《こころ》よくないものだ。わが不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御世辞《おせじ》に気の毒がるのか分らない。高柳君はビステキの赤さ加減を眺《なが》めながら、相手はなぜこう感情が粗大《そだい》だろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢先《やさき》へ持って来て、ざああと水を懸《か》けるのが中野君の例である。不親切な人、冷淡な人ならば始めからそれ相応の用意をしてかかるから、いくら冷たくても驚ろく気遣《きづかい》はない。中野君がかような人であったなら、出鼻をはたかれてもさほどに口惜《くや》しくはなかったろう。しかし高柳君の眼に映ずる中野輝一《なかのきいち》は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁《わきま》えた秀才である。この秀才が折々この癖を出すのは解《かい》しにくい。
彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。
高柳君は口数をきかぬ、人交《ひとまじわ》りをせぬ、厭世家《えんせいか》の皮肉屋と云われた男である。中野君は鷹揚《おうよう》な、円満な、趣味に富んだ秀才である。この両人《ふたり》が卒然と交《まじわり》を訂《てい》してから、傍目《はため》にも不審と思われるくらい昵懇《じっこん》な間柄《あいだがら》となった。運命は大島《おおしま》の表と秩父《ちちぶ》の裏とを縫い合せる。
天下に親しきものがただ一人《ひとり》あって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友《ほうゆう》をもって中野君を目《もく》してはおらぬ。その中野君がわが不平を残りなく聞いてくれぬのは残念である。途中で夕立に逢って思う所へ行かずに引き返したようなものである。残りなく聞いてくれぬ上に、呑気《のんき》な慰藉《いしゃ》をかぶせられるのはなおさら残念だ。膿《うみ》を出してくれと頼んだ腫物《しゅもつ》を、いい加減の真綿《まわた》で、撫《な》で廻わされたってむず痒《がゆ》いばかりである。
しかしこう思うのは高柳君の無理である。御雛様《おひなさま》に芸者の立《た》て引《ひ》きがないと云って攻撃するのは御雛様の恋を解《かい》せぬものの言草《いいぐさ》である。中野君は富裕《ふゆう》な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵《こたつ》へあたって、椽側《えんがわ》の硝子戸越《ガラスどごし》に眺《なが》めたばかりである。友禅《ゆうぜん》の模様はわかる、金屏《きんびょう》の冴《さ》えも解せる、銀燭《ぎんしょく》の耀《かがや》きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢《ぼっきょうかん》では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁《し》みてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束《おぼつか》なき針の目を忍んで繋《つな》ぐ、細い糸の御蔭《おかげ》である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河《さんが》が横《よこた》わっている。歯を病《や》んだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳《か》けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。
「君などは悲観する必要がないから結構だ」と、ビステキを半分で断念した高柳君は敷島をふかしながら、相手の顔を眺めた。相手は口をもがもがさせながら、右の手を首と共に左右に振ったのは、高柳君に同意を表しないのと見える。
「僕が悲観する必要がない? 悲観する必要がないとすると、つまりおめでたい人間と云う意味になるね」
高柳君は覚えず、薄い唇《くちびる》を動かしかけたが、微《かす》かな漣《さざなみ》は頬《ほお》まで広がらぬ先に消えた。相手はなお言葉をつづける。
「僕だって三年も大学にいて多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれほど悲観すべきものであるかぐらいは知ってるつもりだ」
「書物の上でだろう」と高柳君は高い山から谷底を見下ろしたように云う。
「書物の上――書物の上では無論だが、実際だって、これでなかなか苦痛もあり煩悶《はんもん》もあるんだよ」
「だって、生活には困らないし、時間は充分あるし、勉強はしたいだけ出来るし、述作は思う通りにやれるし。僕に較《くら》べると君は実に幸福だ」と高柳君今度はさも羨《うらや》ましそうに嘆息する。
「ところが裏面はなかなかそんな気楽なんじゃないさ。これでもいろいろ心配があって、いやになるのだよ」と中野君は強《し》いて心配の所有権を主張している。
「そうかなあ」と相手は、なかなか信じない。
「そう君まで茶かしちゃ、いよいよつまらなくなる。実は今日あたり、君の所へでも出掛けて、大《おおい》に同情してもらおうかと思っていたところさ」
「訳《わけ》をきかせなくっちゃ同情も出来ないね」
「訳はだんだん話すよ。あんまり、くさくさするから、こうやって散歩に来たくらいなものさ。ちっとは察しるがいい」
高柳君は今度は公然とにやにやと笑った。ちっとは察しるつもりでも、察しようがないのである。
「そうして、君はまたなんで今頃公園なんか散歩しているんだね」と中野君は正面から高柳君の顔を見たが、
「や、君の顔は妙だ。日の射《さ》している右側の方は大変血色がいいが、影になってる方は非常に色沢《いろつや》が悪い。奇妙だな。鼻を境に矛盾《むじゅん》が睨《にら》めこをしている。悲劇と喜劇の仮面《めん》を半々につぎ合せたようだ」と息もつがず、述べ立てた。
この無心の評を聞いた、高柳君は心の秘密を顔の上で読まれたように、はっと思うと、右の手で額の方から顋《あご》のあたりまで、ぐるりと撫《な》で廻わした。こうして顔の上の矛盾をかき混《ま》ぜるつもりなのかも知れない。
「いくら天気がよくっても、散歩なんかする暇《ひま》はない。今日は新橋の先まで遺失品を探《さ》がしに行ってその帰りがけにちょっとついでだから、ここで休んで行こうと思って来たのさ」と顔を攪《か》き廻した手を顎《あご》の下へかって依然として浮かぬ様子をする。悲劇の面《めん》と喜劇の面をまぜ返えしたから通例の顔になるはずであるのに、妙に濁ったものが出来上ってしまった。
「遺失品て、何を落したんだい」
「昨日《きのう》電車の中で草稿《そうこう》を失って――」
「草稿? そりゃ大変だ。僕は書き上げた原稿が雑誌へ出るまでは心配でたまらない。実際草稿なんてものは、吾々《われわれ》に取って、命より大切なものだからね」
「なに、そんな大切な草稿でも書ける暇があるようだといいんだけれども――駄目だ」と自分を軽蔑《けいべつ》したような口調《くちょう》で云う。
「じゃ何の草稿だい」
「地理教授法の訳《やく》だ。あしたまでに届けるはずにしてあるのだから、今なくなっちゃ原稿料も貰えず、またやり直さなくっちゃならず、実に厭《いや》になっちまう」
「それで、探《さ》がしに行っても出て来《こ》ないのかい」
「来ない」
「どうしたんだろう」
「おおかた車掌が、うちへ持って行って、はたき[#「はたき」に傍点]でも拵《こしら》えたんだろう」
「まさか、しかし出なくっちゃ困るね」
「困るなあ自分の不注意と我慢するが、その遺失品係りの厭《いや》な奴《やつ》だ事って――実に不親切で、形式的で――まるで版行《はんこう》におしたような事をぺらぺらと一通り述べたが以上、何を聞いても知りません知りませんで持ち切っている。あいつは廿世紀の日本人を代表している模範的人物だ。あすこの社長もきっとあんな奴に違《ちがい》ない」
「ひどく癪《しゃく》に障《さわ》ったものだね。しかし世の中はその遺失品係りのようなのばかりじゃないからいいじゃないか」
「もう少し人間らしいのがいるかい」
「皮肉な事を云う」
「なに世の中が皮肉なのさ。今の世のなかは冷酷の競進会《きょうしんかい》見たようなものだ」と云いながら呑みかけの「敷島」を二階の欄干《てすり》から、下へ抛《な》げる途端《とたん》に、ありがとうと云う声がして、ぬっと門口《かどぐち》を出た二人連《ふたりづれ》の中折帽の上へ、うまい具合に燃殻《もえがら》が乗っかった。男は帽子から煙を吐いて得意になって行く。
「おい、ひどい事をするぜ」と中野君が云う。
「なに過《あやま》ちだ。――ありゃ、さっきの実業家だ。構うもんか抛《ほう》って置け」
「なるほどさっきの男だ。何で今までぐずぐずしていたんだろう。下で球《たま》でも突いていたのか知らん」
「どうせ遺失品係りの同類だから何でもするだろう」
「そら気がついた――帽子を取ってはたいている」
「ハハハハ滑稽《こっけい》だ」と高柳君は愉快そうに笑った。
「随分人が悪いなあ」と中野君が云う。
「なるほど善くないね。偶然とは申しながら、あんな事で仇《かたき》を打つのは下等だ。こんな真似をして嬉しがるようでは文学士の価値《ねうち》もめちゃめちゃだ」と高柳君は瞬時にしてまた元《もと》の浮かぬ顔にかえる。
「そうさ」と中野君は非難するような賛成するような返事をする。
「しかし文学士は名前だけで、その実は筆耕《ひっこう》だからな。文学士にもなって、地理教授法の翻訳の下働《したばたら》きをやってるようじゃ、心細い訳《わけ》だ。これでも僕が卒業したら、卒業したらって待っててくれた親もあるんだからな。考えると気の毒なものだ。この様子じゃいつまで待っててくれたって仕方がない」
「まだ卒業したばかりだから、そう急に有名にはなれないさ。そのうち立派な作物《さくぶつ》を出して、大《おおい》に本領を発揮する時に天下は我々のものとなるんだよ」
「いつの事やら」
「そう急《せ》いたって、いけない。追々新陳代謝してくるんだから、何でも気を永くして尻を据《す》えてかからなくっち
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