好悪《こうお》の判然する、善悪の分界を呑《の》み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬《あや》まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。
 道也はこう考えている。だから芸を售《う》って口を糊《こ》するのを恥辱とせぬと同時に、学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋劣《ろうれつ》と心得た。彼が至る所に容れられぬのは、学問の本体に根拠地を構えての上の去就《きょしゅう》であるから、彼自身は内に顧《かえり》みて疚《やま》しいところもなければ、意気地がないとも思いつかぬ。頑愚《がんぐ》などと云う嘲罵《ちょうば》は、掌《てのひら》へ載《の》せて、夏の日の南軒《なんけん》に、虫眼鏡《むしめがね》で検査しても了解が出来ん。
 三度《みたび》教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手柄《てがら》を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位《じゅごい》をちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは
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