妻君に打ち明けた。学校に愛想をつかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯正《きょうせい》するには筆の力によらねばならぬと悟ったのである。今まではいずこの果《はて》で、どんな職業をしようとも、己《おの》れさえ真直であれば曲がったものは苧殻《おがら》のように向うで折れべきものと心得ていた。盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼《まなこ》を開かしむるため、取捨分別《しゅしゃふんべつ》の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟《りくつ》のよく分かる所に聚《あつ》まると早合点《はやがてん》して、この年月《としつき》を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身《わがみ》に、待ち受けたのは生涯《しょうがい》の誤りである。世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随《したが》う影にほかならぬ。
ここまで進んでおらぬ世を買い被《かぶ》って、一足飛《い
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