せの、西洋料理を奢《おご》れのとせびったじゃないか」
「学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ」
「平生《ふだん》ですら、そうなら病気の時はなおさらだ。病気の時に友達が世話をするのは、誰から云ったっておかしくはないはずだ」
「そりゃ世話をする方から云えばそうだろう」
「じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい」
「不平はないさありがたいと思ってるくらいだ」
「それじゃ心快《こころよ》く僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか」
高柳君はしばらく返事をしない。なるほど自分は世の中を不愉快にするために生きてるのかも知れない。どこへ出ても好かれた事がない。どうせ死ぬのだから、なまじい人の情《なさけ》を恩に着るのはかえって心苦しい。世の中を不愉快にするくらいな人間ならば、中野一人を愉快にしてやったって五十歩百歩だ。世の中を不愉快にするくらいな人間なら、また一日も早く死ぬ方がましである。
「君の親切を無《む》にしては気の毒だが僕は転地なんか、したくないんだから勘弁《かんべん》してくれ」
「またそんなわからずやを云う。こう云う病気は初期が大切だよ。時期を失《しっ》すると取り返しがつかないぜ」
「もう、とうに取り返しがつかないんだ」と山の上から飛び下りたような事を云う。
「それが病気だよ。病気のせいでそう悲観するんだ」
「悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。君は必要がないから悲観しないのだ」
「困った男だなあ」としばらく匙《さじ》を投げて、すいと起《た》って障子をあける。例の梧桐《ごとう》が坊主《ぼうず》の枝を真直《まっすぐ》に空に向って曝《さら》している。
「淋《さび》しい庭だなあ。桐《きり》が裸で立っている」
「この間まで葉が着いてたんだが、早いものだ。裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。凄《すご》い景色《けしき》だ」
「そうだろう。――しかし寒いのに夜る起きるのはよくないぜ。僕は冬の月は嫌《きらい》だ。月は夏がいい。夏のいい月夜に屋根舟に乗って、隅田川から綾瀬《あやせ》の方へ漕《こ》がして行って銀扇《ぎんせん》を水に流して遊んだら面白いだろう」
「気楽云ってらあ。銀扇を流すたどうするんだい」
「銀泥《ぎんでい》を置いた扇を何本も舟へ乗せて、月に向って投げるのさ。きらきらして奇麗《きれい》だろう」
「君の発明かい」
「昔《むか》しの通人《つうじん》はそんな風流をして遊んだそうだ」
「贅沢《ぜいたく》な奴らだ」
「君の机の上に原稿があるね。やっぱり地理学教授法か」
「地理学教授法はやめたさ。病気になって、あんなつまらんものがやれるものか」
「じゃ何だい」
「久しく書きかけて、それなりにして置いたものだ」
「あの小説か。君の一代の傑作か。いよいよ完成するつもりなのかい」
「病気になると、なおやりたくなる。今まではひまになったらと思っていたが、もうそれまで待っちゃいられない。死ぬ前に是非書き上げないと気が済まない」
「死ぬ前は過激な言葉だ。書くのは賛成だが、あまり凝《こ》るとかえって身体《からだ》がわるくなる」
「わるくなっても書けりゃいいが、書けないから残念でたまらない。昨夜《ゆうべ》は続きを三十枚かいた夢を見た」
「よっぽど書きたいのだと見えるね」
「書きたいさ。これでも書かなくっちゃ何のために生れて来たのかわからない。それが書けないときまった以上は穀潰《ごくつぶ》し同然ださ。だから君の厄介《やっかい》にまでなって、転地するがものはないんだ」
「それで転地するのがいやなのか」
「まあ、そうさ」
「そうか、それじゃ分った。うん、そう云うつもりなのか」と中野君はしばらく考えていたが、やがて
「それじゃ、君は無意味に人の世話になるのが厭《いや》なんだろうから、そこのところを有意味にしようじゃないか」と云う。
「どうするんだ」
「君の目下《もっか》の目的は、かねて腹案のある述作を完成しようと云うのだろう。だからそれを条件にして僕が転地の費用を担任しようじゃないか。逗子《ずし》でも鎌倉《かまくら》でも、熱海《あたみ》でも君の好《すき》な所へ往《い》って、呑気《のんき》に養生する。ただ人の金を使って呑気に養生するだけでは心が済まない。だから療養かたがた気が向いた時に続きをかくさ。そうして身体《からだ》がよくなって、作《さく》が出来上ったら帰ってくる。僕は費用を担任した代り君に一大傑作を世間へ出して貰う。どうだい。それなら僕の主意も立ち、君の望《のぞみ》も叶《かな》う。一挙両得じゃないか」
高柳君は膝頭《ひざがしら》を見詰めて考えていた。
「僕が君の所へ、僕の作を持って行けば、僕の君に対する責任は済む訳なんだね」
「そうさ。同時に君が天下
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