学者に恐れ入って来なければならん。今、学者と金持の間に葛藤《かっとう》が起るとする。単に金銭問題ならば学者は初手《しょて》から無能力である。しかしそれが人生問題であり、道徳問題であり、社会問題である以上は彼ら金持は最初から口を開く権能《けんのう》のないものと覚悟をして絶対的に学者の前に服従しなければならん。岩崎は別荘を立て連《つ》らねる事において天下の学者を圧倒しているかも知れんが、社会、人生の問題に関しては小児と一般である。十万坪の別荘を市の東西南北に建てたから天下の学者を凹《へこ》ましたと思うのは凌雲閣《りょううんかく》を作ったから仙人《せんにん》が恐れ入ったろうと考えるようなものだ……」
 聴衆は道也の勢《いきおい》と最後の一句の奇警なのに気を奪われて黙っている。独《ひと》り高柳君がたまらなかったと見えて大きな声を出して喝采《かっさい》した。
「商人が金を儲《もう》けるために金を使うのは専門上の事で誰も容喙《ようかい》が出来ぬ。しかし商買上に使わないで人事上にその力を利用するときは、訳のわかった人に聞かねばならぬ。そうしなければ社会の悪を自《みずか》ら醸造《じょうぞう》して平気でいる事がある。今の金持の金のある一部分は常にこの目的に向って使用されている。それと云うのも彼ら自身が金の主《しゅ》であるだけで、他の徳、芸の主でないからである。学者を尊敬する事を知らんからである。いくら教えても人の云う事が理解出来んからである。災《わざわい》は必ず己《おの》れに帰る。彼らは是非共《ぜひとも》学者文学者の云う事に耳を傾けねばならぬ時期がくる。耳を傾けねば社会上の地位が保《たも》てぬ時期がくる」
 聴衆は一度にどっと鬨《とき》を揚《あ》げた。高柳君は肺病にもかかわらずもっとも大《おおい》なる鬨を揚げた。生れてから始めてこんな痛快な感じを得た。襟巻《えりまき》に半分顔を包んでから風のなかをここまで来た甲斐《かい》はあると思う。
 道也先生は予言者のごとく凛《りん》として壇上に立っている。吹きまくる木枯《こがらし》は屋《おく》を撼《うご》かして去る。

        十二

「ちっとは、好《い》い方かね」と枕元へ坐る。
 六畳の座敷は、畳がほけて、とんと打ったら夜でも埃《ほこ》りが見えそうだ。宮島産の丸盆に薬瓶《くすりびん》と験温器《けんおんき》がいっしょに乗っている。高柳君は演説を聞いて帰ってから、とうとう喀血《かっけつ》してしまった。
「今日はだいぶいい」と床の上に起き返って後《うしろ》から掻巻《かいまき》を背《せ》の半分までかけている。
 中野君は大島紬《おおしまつむぎ》の袂《たもと》から魯西亜皮《ロシアがわ》の巻莨入《まきたばこいれ》を出しかけたが、
「うん、煙草《たばこ》を飲んじゃ、わるかったね」とまた袂のなかへ落す。
「なに構わない。どうせ煙草ぐらいで癒《なお》りゃしないんだから」と憮然《ぶぜん》としている。
「そうでないよ。初《はじめ》が肝心《かんじん》だ。今のうち養生しないといけない。昨日《きのう》医者へ行って聞いて見たが、なに心配するほどの事もない。来たかい医者は」
「今朝来た。暖《あった》かにしていろと云った」
「うん。暖かにしているがいい。この室《へや》は少し寒いねえ」と中野君は侘《わび》し気《げ》に四方《あたり》を見廻した。
「あの障子《しょうじ》なんか、宿の下女にでも張らしたらよかろう。風が這入《はい》って寒いだろう」
「障子だけ張ったって……」
「転地でもしたらどうだい」
「医者もそう云うんだが」
「それじゃ、行くがいい。今朝そう云ったのかね」
「うん」
「それから君は何と答えた」
「何と答えるったって、別に答えようもないから……」
「行けばいいじゃないか」
「行けばいいだろうが、ただはいかれない」
 高柳君は元気のない顔をして、自分の膝頭《ひざがしら》へ眼を落した。瓦斯双子《ガスふたこ》の端《はじ》から鼠色《ねずみいろ》のフラネルが二寸ばかり食《は》み出《だ》している。寸法も取らず別々に仕立てたものだろう。
「それは心配する事はない。僕がどうかする」
 高柳君は潤《うるおい》のない眼を膝から移して、中野君の幸福な顔を見た。この顔しだいで返答はきまる。
「僕がどうかするよ。何《なん》だって、そんな眼をして見るんだ」
 高柳君は自分の心が自分の両眼《りょうがん》から、外を覗《のぞ》いていたのだなと急に気がついた。
「君に金を借りるのか」
「借りないでもいいさ……」
「貰うのか」
「どうでもいいさ。そんな事を気に掛ける必要はない」
「借りるのはいやだ」
「じゃ借りなくってもいいさ」
「しかし貰う訳には行かない」
「六《む》ずかしい男だね。何だってそんなにやかましくいうのだい。学校にいる時分は、よく君の方から金を借
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