あるとはたしかに思わなかった。多少の不都合を犠牲にしてまで、高柳君を待ち受けたる夫婦の眼に高柳君の姿がちらと映じた時、待ち受けたにもかかわらず、待ち受け甲斐《がい》のある御客とは夫婦共に思わなかった。友誼《ゆうぎ》の三|分《ぶ》一は服装が引き受ける者である。頭のなかで考えた友達と眼の前へ出て来た友達とはだいぶ違う。高柳君の服装はこの日の来客中でもっとも憐《あわ》れなる服装である。愛は贅沢《ぜいたく》である。美なるもののほかには価値を認めぬ。女はなおさらに価値を認めぬ。
夫婦が高柳君と顔を見合せた時、夫婦共「これは」と思った。高柳君が夫婦と顔を見合せた時、同じく「これは」と思った。
世の中は「これは」と思った時、引き返せぬものである。高柳君は蹌踉《そうろう》として進んでくる。夫婦の胸にはっときざした「これは」は、すぐと愛の光りに姿をかくす。
「やあ、よく来てくれた。あまり遅いから、どうしたかと思って心配していたところだった」偽《いつわ》りもない事実である。ただ「これは」と思った事だけを略したまでである。
「早く来《こ》ようと思ったが、つい用があって……」これも事実である。けれどもやはり「これは」が略されている。人間の交際にはいつでも「これは」が略される。略された「これは」が重なると、喧嘩《けんか》なしの絶交となる。親しき夫婦、親しき朋友《ほうゆう》が、腹のなかの「これは、これは」でなし崩《くず》しに愛想《あいそ》をつかし合っている。
「これが妻《さい》だ」と引き合わせる。一人坊《ひとりぼ》っちに美しい妻君を引き合わせるのは好意より出た罪悪である。愛の光りを浴びたものは、嬉《うれ》しさがはびこって、そんな事に頓着《とんじゃく》はない。
何にも云わぬ細君はただしとやかに頭を下げた。高柳君はぼんやりしている。
「さあ、あちらへ――僕もいっしょに行こう」と歩を運《めぐ》らす。十間ばかりあるくと、夫婦はすぐ胡麻塩《ごましお》おやじにつらまった。
「や、どうもみごとな御庭ですね。こう広くはあるまいと思ってたが――いえ始めてで。おとっさんから時々御招きはあったが、いつでも折悪しく用事があって――どうも、よく御手入れが届いて、実に結構ですね……」
と胡麻塩はのべつに述べたてて容易に動かない。ところへまた二三人がやってくる。
「結構だ」「何坪ですかな」「私も年来この辺《へん》を心掛けておりますが」などと新夫婦を取り捲《ま》いてしまう。高柳君は憮然《ぶぜん》として中心をはずれて立っている。
すると向うから、襷《たすき》がけの女が駈けて来て、いきなり塩瀬《しおぜ》の五《いつ》つ紋《もん》をつらまえた。
「さあ、いらっしゃい」
「いらっしゃいたって、もうほかで御馳走《ごちそう》になっちまったよ」
「ずるいわ、あなたは、他《ひと》にこれほど馳《か》けずり廻らせて」
「旨《うま》いものも、ない癖に」
「あるわよ、あなた。まあいいからいらっしゃいてえのに」とぐいぐい引っ張る。塩瀬《しおぜ》は羽織が大事だから引かれながら行く、途端《とたん》に高柳君に突き当った。塩瀬はちょっと驚ろいて振り向いたまでは、粗忽《そこつ》をして恐れ入ったと云う面相《めんそう》をしていたが、高柳君の顔から服装を見るや否や、急に表情を変えた。
「やあ、こりゃ」と上からさげすむように云って、しかも立って見ている。
「いらっしゃいよ。いいからいらっしゃいよ。構わないでも、いいからいらっしゃいよ」と女は高柳君を後目《しりめ》にかけたなり塩瀬を引っ張って行く。
高柳君はぽつぽつ歩き出した。若夫婦は遥《はる》かあなたに遮《さえぎ》られていっしょにはなれぬ。芝生《しばふ》の真中に長い天幕《テント》を張る。中を覗《のぞ》いて見たら、暗い所に大きな菊の鉢《はち》がならべてある。今頃こんな菊がまだあるかと思う。白い長い花弁が中心から四方へ数百片延び尽して、延び尽した端《はじ》からまた随意に反《そ》り返りつつ、あらん限りの狂態を演じているのがある。背筋《せすじ》の通った黄な片《ひら》が中へ中へと抱き合って、真中に大切なものを守護するごとく、こんもりと丸くなったのもある。松の鉢も見える。玻璃盤《はりばん》に堆《うずた》かく林檎《りんご》を盛ったのが、白い卓布《たくふ》の上に鮮《あざ》やかに映る。林檎の頬が、暗きうちにも光っている。蜜柑を盛った大皿もある。傍《そば》でけらけらと笑う声がする。驚ろいて振り向くと、しるくはっとを被《かぶ》った二人の若い男が、二人共|相好《そうごう》を崩《くず》している。
「妙だよ。実に」と一人が云う。
「珍だね。全く田舎者《いなかもの》なんだよ」と一人が云う。
高柳君はじっと二人を見た。一人は胸開《むねあき》の狭い。模様のある胴衣《チョッキ》を着て、右手の親指を胴衣の
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