て教師を理想とする事が出来ますか」
「ノー、ノー」
「社会に在って紳士を理想とする事が出来ますか」
「ノー、ノー」
「事実上諸君は理想をもっておらん。家に在っては父母を軽蔑《けいべつ》し、学校に在っては教師を軽蔑し、社会に出でては紳士を軽蔑している。これらを軽蔑し得るのは見識である。しかしこれらを軽蔑し得るためには自己により大《だい》なる理想がなくてはならん。自己に何らの理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。現代の青年は滔々《とうとう》として日に堕落しつつある」
 聴衆は少しく色めいた。「失敬な」とつぶやくものがある。道也先生は昂然《こうぜん》として壇下を睥睨《へいげい》している。
「英国風を鼓吹《こすい》して憚《はば》からぬものがある。気の毒な事である。己《おの》れに理想のないのを明かに暴露《ばくろ》している。日本の青年は滔々として堕落するにもかかわらず、いまだここまでは堕落せんと思う。すべての理想は自己の魂である。うちより出《いで》ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りようがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である。奴隷をもって甘んずるのみならず、争って奴隷たらんとするものに何らの理想が脳裏《のうり》に醗酵《はっこう》し得る道理があろう。
「諸君。理想は諸君の内部から湧《わ》き出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となりついに諸君の魂となった時に諸君の理想は出来上るのである。付焼刃《つけやきば》は何にもならない」
 道也先生はひやかされるなら、ひやかして見ろと云わぬばかりに片手の拳骨《げんこつ》をテーブルの上に乗せて、立っている。汚ない黒木綿《くろもめん》の羽織に、べんべらの袴《はかま》は最前《さいぜん》ほどに目立たぬ。風の音がごうと鳴る。
「理想のあるものは歩くべき道を知っている。大なる理想のあるものは大なる道をあるく。迷子《まいご》とは違う。どうあってもこの道をあるかねばやまぬ。迷いたくても迷えんのである。魂がこちらこちらと教えるからである。
「諸君のうちには、どこまで歩くつもりだと聞くものがあるかも知れぬ。知れた事である。行ける所まで行くのが人生である。誰しも自分の寿命を知ってるものはない。自分に知れない寿命は他人にはなおさらわからない。医者を家業にする専門家でも人間の寿命を勘定する訳には行かぬ。自分が何
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