こ》のうなりのように鳴る。
「あなた、いつまでこうしていらっしゃるの」と細君は術《じゅつ》なげに聞いた。
「いつまでとも考はない。食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか」
「二言目《ふたことめ》には食えれば食えればとおっしゃるが、今こそ、どうにかこうにかして行きますけれども、このぶんで押して行けば今に食べられなくなりますよ」
「そんなに心配するのかい」
 細君はむっとした様子である。
「だって、あなたも、あんまり無考《むかんがえ》じゃござんせんか。楽に暮せる教師の口はみんな断《ことわ》っておしまいなすって、そうして何でも筆で食うと頑固《がんこ》を御張りになるんですもの」
「その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい」
「食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「だって食べられないんですもの」
「たべられるよ」
「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性《しょう》に合わないんですよ」
「よくそんな事がわかるな」
 細君は俯向《うつむ》いて、袂《たもと》から鼻紙を出してちいんと鼻をかんだ。
「私ばかりじゃ、ありませんわ。御兄《おあにい》さんだって、そうおっしゃるじゃありませんか」
「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」
「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にしていらっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢《ひばち》の灰を丁寧に掻《か》きならす。中から二寸|釘《くぎ》が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛《ほう》り出した。
 庭には何にもない。芭蕉《ばしょう》がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をしている。地面は皮が剥《む》けて、蓆《むしろ》を捲《ま》きかけたように反《そ》っくり返っている。道也先生は庭の面《おもて》を眺《なが》めながら
「だいぶ吹いてるな」と独語《ひとりごと》のように云った。
「もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうで
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