に入る。ただ生存は人生の目的なるが故《ゆえ》に、生存に便宜なるこの迷路は入る事いよいよ深くして出ずる事いよいよかたきを感ず。独《ひと》り生存の欲を一刻たりとも擺脱《はいだつ》したるときにこの迷《まよい》は破る事が出来る。高柳君はこの欲を刹那《せつな》も除去し得ざる男である。したがって主客を方寸に一致せしむる事のできがたき男である。主は主、客は客としてどこまでも膠着《こうちゃく》するが故に、一たび優勢なる客に逢うとき、八方より無形の太刀《たち》を揮《ふる》って、打ちのめさるるがごとき心地がする。高柳君はこの園遊会において孤軍重囲のうちに陥ったのである。
蹌踉《そうろう》としてアーチを潜《くぐ》った高柳君はまた蹌踉としてアーチを出《いで》ざるを得ぬ。遠くから振り返って見ると青い杉の環《わ》の奥の方に天幕《テント》が小さく映って、幕のなかから、奇麗《きれい》な着物がかたまってあらわれて来た。あのなかに若い夫婦も交ってるのであろう。
夫婦の方では高柳をさがしている。
「時に高柳はどうしたろう。御前《おまえ》あれから逢《あ》ったかい」
「いいえ。あなたは」
「おれは逢わない」
「もう御帰りになったんでしょうか」
「そうさ、――しかし帰るなら、ちっとは帰る前に傍《そば》へ来て話でもしそうなものだ」
「なぜ皆さんのいらっしゃる所へ出ていらっしゃらないのでしょう」
「損だね、ああ云う人は。あれで一人じゃやっぱり不愉快なんだ。不愉快なら出てくればいいのになおなお引き込んでしまう。気の毒な男だ」
「せっかく愉快にしてあげようと思って、御招きするのにね」
「今日は格別色がわるかったようだ」
「きっと御病気ですよ」
「やっぱり一人坊《ひとりぼ》っちだから、色が悪いのだよ」
高柳君は往来をあるきながら、ぞっと悪寒《おかん》を催《もよお》した。
十
道也《どうや》先生長い顔を長くして煤竹《すすだけ》で囲った丸火桶《まるひおけ》を擁《よう》している。外を木枯《こがらし》が吹いて行く。
「あなた」と次の間《ま》から妻君が出てくる。紬《つむぎ》の羽織の襟《えり》が折れていない。
「何だ」とこっちを向く。机の前におりながら、終日《しゅうじつ》木枯《こがらし》に吹《ふ》き曝《さら》されたかのごとくに見える。
「本は売れたのですか」
「まだ売れないよ」
「もう一ヵ月も立てば百や
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