と医者が云った。宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いた上、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。その時御米は先刻《さっき》よりはだいぶ軽快になっていたからである。
「もう大丈夫でしょう。頓服《とんぷく》を一回上げますから今夜飲んで御覧なさい。多分寝られるだろうと思います」と云って医者は帰った。小六はすぐその後《あと》を追って出て行った。
小六が薬取に行った間に、御米は
「もう何時」と云いながら、枕元の宗助を見上げた。宵《よい》とは違って頬から血が退《ひ》いて、洋灯《ランプ》に照らされた所が、ことに蒼白《あおじろ》く映った。宗助は黒い毛の乱れたせいだろうと思って、わざわざ鬢《びん》の毛を掻き上げてやった。そうして、
「少しはいいだろう」と聞いた。
「ええよっぽど楽になったわ」と御米はいつもの通り微笑を洩《も》らした。御米は大抵苦しい場合でも、宗助に微笑を見せる事を忘れなかった。茶の間では、清が突伏したまま鼾《いびき》をかいていた。
「清を寝かしてやって下さい」と御米が宗助に頼んだ。
小六が薬取りから帰って来て、医者の云いつけ通り服薬を済ましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。それから二十分と経たないうちに、病人はすやすや寝入った。
「好い塩梅《あんばい》だ」と宗助が御米の顔を見ながら云った。小六もしばらく嫂《あによめ》の様子を見守っていたが、
「もう大丈夫でしょう」と答えた。二人は氷嚢を額からおろした。
やがて小六は自分の部屋へ這入《はい》る。宗助は御米の傍《そば》へ床を延べていつものごとく寝た。五六時間の後《のち》冬の夜は錐《きり》のような霜《しも》を挟《さしは》さんで、からりと明け渡った。それから一時間すると、大地を染める太陽が、遮《さえ》ぎるもののない蒼空《あおぞら》に憚《はばか》りなく上《のぼ》った。御米はまだすやすや寝ていた。
そのうち朝餉《あさげ》も済んで、出勤の時刻がようやく近づいた。けれども御米は眠りから覚《さ》める気色《けしき》もなかった。宗助は枕辺《まくらべ》に曲《こご》んで、深い寝息を聞きながら、役所へ行こうか休もうかと考えた。
十二
朝の内は役所で常のごとく事務を執《と》っていたが、折々|昨夕《ゆうべ》の光景が眼に浮ぶに連れて、自然|御米《およね》の病気が気に罹《かか》るので、仕事は思うように運ばなかった。時には変な間違をさえした。宗助《そうすけ》は午《ひる》になるのを待って、思い切って宅《うち》へ帰って来た。
電車の中では、御米の眼がいつ頃|覚《さ》めたろう、覚めた後は心持がだいぶ好くなったろう、発作《ほっさ》ももう起る気遣《きづかい》なかろうと、すべて悪くない想像ばかり思い浮べた。いつもと違って、乗客の非常に少ない時間に乗り合わせたので、宗助は周囲の刺戟《しげき》に気を使う必要がほとんどなかった。それで自由に頭の中へ現われる画を何枚となく眺《なが》めた。そのうちに、電車は終点に来た。
宅の門口《かどぐち》まで来ると、家の中はひっそりして、誰もいないようであった。格子《こうし》を開けて、靴を脱いで、玄関に上がっても、出て来るものはなかった。宗助はいつものように縁側《えんがわ》から茶の間へ行かずに、すぐ取付《とっつき》の襖《ふすま》を開けて、御米の寝ている座敷へ這入《はい》った。見ると、御米は依然として寝ていた。枕元の朱塗の盆に散薬《さんやく》の袋と洋杯が載《の》っていて、その洋杯《コップ》の水が半分残っているところも朝と同じであった。頭を床の間の方へ向けて、左の頬と芥子《からし》を貼った襟元《えりもと》が少し見えるところも朝と同じであった。呼息《いき》よりほかに現実世界と交通のないように思われる深い眠《ねむり》も朝見た通りであった。すべてが今朝出掛に頭の中へ収めて行った光景と少しも変っていなかった。宗助は外套《マント》も脱がずに、上から曲《こご》んで、すうすういう御米の寝息をしばらく聞いていた。御米は容易に覚めそうにも見えなかった。宗助は昨夕《ゆうべ》御米が散薬を飲んでから以後の時間を指を折って勘定した。そうしてようやく不安の色を面《おもて》に表わした。昨夕までは寝られないのが心配になったが、こう前後不覚に長く寝るところを眼《ま》のあたりに見ると、寝る方が何かの異状ではないかと考え出した。
宗助は蒲団《ふとん》へ手を掛けて二三度軽く御米を揺振《ゆすぶ》った。御米の髪が括枕《くくりまくら》の上で、波を打つように動いたが、御米は依然としてすうすう寝ていた。宗助は御米を置いて、茶の間から台所へ出た。流し元の小桶《こおけ》の中に茶碗と塗椀が洗わないまま浸《つ》けてあった。下女部屋を覗《のぞ》くと、清《きよ》が自分の前に小さな膳《ぜん》を控えたなり、御櫃《おはち》に倚《よ》りかかって突伏していた。宗助はまた六畳の戸を引いて首を差し込んだ。そこには小六《ころく》が掛蒲団を一枚頭から引被って寝ていた。
宗助は一人で着物を着換えたが、脱ぎ捨てた洋服も、人手を借りずに自分で畳んで、押入にしまった。それから火鉢へ火を継《つ》いで、湯を沸《わ》かす用意をした。二三分は火鉢に持たれて考えていたが、やがて立ち上がって、まず小六から起しにかかった。次に清を起した。二人とも驚ろいて飛び起きた。小六に御米の今朝から今までの様子を聞くと、実は余り眠いので、十一時半頃飯を食って寝たのだが、それまでは御米もよく熟睡していたのだと云う。
「医者へ行ってね。昨夜《ゆうべ》の薬を戴《いただ》いてから寝出して、今になっても眼が覚めませんが、差支《さしつかえ》ないでしょうかって聞いて来てくれ」
「はあ」
小六は簡単な返事をして出て行った。宗助はまた座敷へ来て御米の顔を熟視した。起してやらなくっては悪いような、また起しては身体《からだ》へ障《さわ》るような、分別《ふんべつ》のつかない惑《まどい》を抱《いだ》いて腕組をした。
間もなく小六が帰って来て、医者はちょうど往診に出かけるところであった、訳を話したら、では今から一二軒寄ってすぐ行こうと答えた、と告げた。宗助は医者が見えるまで、こうして放っておいて構わないのかと小六に問い返したが、小六は医者が以上よりほかに何にも語らなかったと云うだけなので、やむを得ず元のごとく枕辺《まくらべ》にじっと坐っていた。そうして心の中《うち》で、医者も小六も不親切過ぎるように感じた。彼はその上|昨夕《ゆうべ》御米を介抱している時に帰って来た小六の顔を思い出して、なお不愉快になった。小六が酒を呑《の》む事は、御米の注意で始めて知ったのであるが、その後気をつけて弟の様子をよく見ていると、なるほど何だか真面目《まじめ》でないところもあるようなので、いつかみっちり異見でもしなければなるまいくらいに考えてはいたが、面白くもない二人の顔を御米に見せるのが、気の毒なので、今日《きょう》までわざと遠慮していたのである。
「云い出すなら御米の寝ている今である。今ならどんな気不味《きまず》いことを双方で言い募《つの》ったって、御米の神経に障る気遣《きづかい》はない」
ここまで考えついたけれども、知覚のない御米の顔を見ると、またその方が気がかりになって、すぐにでも起したい心持がするので、つい決し兼てぐずぐずしていた。そこへようやく医者が来てくれた。
昨夕の折鞄《おりかばん》をまた丁寧《ていねい》に傍《わき》へ引きつけて、緩《ゆっ》くり巻煙草《まきたばこ》を吹かしながら、宗助の云うことを、はあはあと聞いていたが、どれ拝見致しましょうと御米の方へ向き直った。彼は普通の場合のように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていた。それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。それを丁寧にあちらこちらと動かした。最後に丸い穴の開《あ》いた反射鏡を出して、宗助に蝋燭《ろうそく》を点《つ》けてくれと云った。宗助は蝋燭を持たないので、清に洋灯《ランプ》を点《つ》けさした。医者は眠っている御米の眼を押し開けて、仔細《しさい》に反射鏡の光を睫《まつげ》の奥に集めた。診察はそれで終った。
「少し薬が利《き》き過ぎましたね」と云って宗助の方へ向き直ったが、宗助の眼の色を見るや否《いな》や、すぐ、
「しかし御心配になる事はありません。こう云う場合に、もし悪い結果が起るとすると、きっと心臓か脳を冒《おか》すものですが、今拝見したところでは双方共異状は認められませんから」と説明してくれた。宗助はそれでようやく安心した。医者はまた自分の用いた眠り薬が比較的新らしいもので、学理上、他の睡眠剤のように有害でない事や、またその効目《ききめ》が患者の体質に因《よ》って、程度に大変な相違のある事などを語って帰った。帰るとき宗助は、
「では寝られるだけ寝かしておいても差支《さしつかえ》ありませんか」と聞いたら、医者は用さえなければ別に起す必要もあるまいと答えた。
医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。茶の間へ出ると、先刻《さっき》掛けておいた鉄瓶《てつびん》がちんちん沸《たぎ》っていた。清を呼んで、膳《ぜん》を出せと命ずると、清は困った顔つきをして、まだ何の用意もできていないと答えた。なるほど晩食《ばんめし》には少し間があった。宗助は楽々と火鉢の傍《そば》に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、大根の香《こう》の物《もの》を噛《か》みながら湯漬《ゆづけ》を四杯ほどつづけざまに掻《か》き込んだ。それから約三十分ほどしたら御米の眼がひとりでに覚《さ》めた。
十三
新年の頭を拵《こし》らえようという気になって、宗助《そうすけ》は久し振に髪結床《かみゆいどこ》の敷居を跨《また》いだ。暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏《はさみ》の音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮《あせ》るような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにも忙《せわ》しない響となって彼の鼓膜を打った。
しばらく煖炉《ストーブ》の傍《はた》で煙草《たばこ》を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに捲《ま》き込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱《いだ》いていたのである。
御米《およね》の発作《ほっさ》はようやく落ちついた。今では平日《いつも》のごとく外へ出ても、家《うち》の事がそれほど気にかからないぐらいになった。余所《よそ》に比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生《よみがえ》ったようにはっきりした妻《さい》の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩|遠退《とおの》いた時のごとくに、胸を撫《な》でおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕《とら》えに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念《けねん》が、折々彼の頭のなかに霧《きり》となってかかった。
年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意《わざ》と短い日を前へ押し出したがって齷齪《あくせく》する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠《ぼうばく》たる恐怖の念に襲《おそ》われた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走《しわす》の中《うち》に一人残っていたい思さえ起った。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺《なが》めた。首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞《しま》も全く見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥の籠《かご》が、鏡の奥に映っている事に気がついた。鳥が止《とま》り木《ぎ》の上をちらりちらりと動いた。
頭へ香《におい》のする油を塗られて、景気のいい声を後《うしろ》から掛けられて、表へ出
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