しかし今眼が覚《さ》めるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。そうして傍に寝ている夫の夜具の袖《そで》を引いて、今度は真面目《まじめ》に宗助を起し始めた。
宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼が覚《さ》めると、御米が、
「あなたちょっと起きて下さい」と揺《ゆす》っていたので、半分は夢中に、
「おい、好し」とすぐ蒲団《ふとん》の上へ起き直った。御米は小声で先刻《さっき》からの様子を話した。
「音は一遍した限《ぎり》なのかい」
「だって今したばかりなのよ」
二人はそれで黙った。ただじっと外の様子を伺っていた。けれども世間は森《しん》と静であった。いつまで耳を峙《そばだ》てていても、再び物の落ちて来る気色《けしき》はなかった。宗助は寒いと云いながら、単衣《ひとえ》の寝巻の上へ羽織を被《かぶ》って、縁側《えんがわ》へ出て、雨戸を一枚繰った。外を覗《のぞ》くと何にも見えない。ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌に逼《せま》って来た。宗助はすぐ戸を閉《た》てた。
※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》をおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へ潜《もぐ》り込んだが、
「何にも変った事はありゃしない。多分|御前《おまい》の夢だろう」と云って、宗助は横になった。御米はけっして夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執《こしつ》した。宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、
「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」と云った。
その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。二人は眼が冴《さ》えて、すぐ寝つかれそうにもなかった。御米が、
「でもあなたは気楽ね。横になると十分|経《た》たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と云った。
「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。
こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。すると表をがらがらと烈《はげ》しい音を立てて車が一台通った。近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があった。そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟《ひっきょう》は毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。多分牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違ないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。そうこうしていると、どこかで鶏《とり》の声が聞えた。またしばらくすると、下駄《げた》の音を高く立てて往来を通るものがあった。そのうち清《きよ》が下女部屋の戸を開けて厠《かわや》へ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。この時床の間に置いた洋灯《ランプ》の油が減って、短かい心《しん》に届かなくなったので、御米の寝ている所は真暗になっていた。そこへ清の手にした灯火《あかり》の影が、襖《ふすま》の間から射し込んだ。
「清かい」と御米が声を掛けた。
清はそれからすぐ起きた。三十分ほど経《た》って御米も起きた。また三十分ほど経って宗助もついに起きた。平常《いつも》は好い時分に御米がやって来て、
「もう起きてもよくってよ」と云うのが例であった。日曜とたまの旗日《はたび》には、それが、
「さあもう起きてちょうだい」に変るだけであった。しかし今日は昨夕《ゆうべ》の事が何となく気にかかるので、御米の迎《むかえ》に来ないうち宗助は床を離れた。そうして直《すぐ》崖下の雨戸を繰った。
下から覗《のぞ》くと、寒い竹が朝の空気に鎖《とざ》されてじっとしている後《うしろ》から、霜《しも》を破る日の色が射して、幾分か頂《いただき》を染めていた。その二尺ほど下の勾配《こうばい》の一番急な所に生えている枯草が、妙に摺《す》り剥《む》けて、赤土の肌を生々《なまなま》しく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされた。それから一直線に降《お》りて、ちょうど自分の立っている縁鼻《えんばな》の土が、霜柱を摧《くだ》いたように荒れていた。宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。
宗助は玄関から下駄を提《さ》げて来て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。御米は掃除屋《そうじや》が来るたびに、この曲り角を気にしては、
「あすこがもう少し広いといいけれども」と危険《あぶな》がるので、よく宗助から笑われた事があった。
そこを通り抜けると、真直《まっすぐ》に台所まで細い路が付いている。元は枯枝の交った杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗《きれい》に取り払って、今では節《ふし》の多い板塀《いたべい》が片側を勝手口まで塞《ふさ》いでしまった。日当りの悪い上に、樋《とい》から雨滴《あまだれ》ばかり落ちるので、夏になると秋海棠《しゅうかいどう》がいっぱい生える。その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂って来る。始めて越した年は、宗助も御米もこの景色《けしき》を見て驚ろかされたくらいである。この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下に蔓《はびこ》っていたもので、古家《ふるや》の取り毀《こぼ》たれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、
「でも可愛いわね」と喜んだ。
宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次《ろじ》の一点に落ちた。そうして彼は日の通わない寒さの中にはたと留まった。
彼の足元には黒塗の蒔絵《まきえ》の手文庫が放り出してあった。中味はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように、霜の上にちゃんと据《すわ》っているが、蓋《ふた》は二三尺離れて、塀《へい》の根に打ちつけられたごとくに引っ繰り返って、中を張った千代紙《ちよがみ》の模様が判然《はっきり》見えた。文庫の中から洩《も》れた、手紙や書付類が、そこいらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙屑のごとく丸めてあった。宗助は近づいて、この揉苦茶《もみくちゃ》になった紙の下を覗《のぞ》いて覚えず苦笑した。下には大便が垂れてあった。
土の上に散らばっている書類を一纏《ひとまとめ》にして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れたまま宗助は勝手口まで持って来た。腰障子《こししょうじ》を開けて、清に
「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受取った。御米は奥で座敷へ払塵《はたき》を掛けていた。宗助はそれから懐手《ふところで》をして、玄関だの門の辺《あたり》をよく見廻ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。
宗助はようやく家《うち》へ入った。茶の間へ来て例の通り火鉢《ひばち》の前へ坐《すわ》ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。御米は、
「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と云いながら奥から出て来た。
「おい昨夜《ゆうべ》枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖《がけ》の上から宅《うち》の庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走《ごちそう》まで置いて行った」
宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆《みんな》坂井の名宛《なあて》が書いてあった。御米は吃驚《びっくり》して立膝のまま、
「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、
「ことに因《よ》ると、まだ何かやられたね」と答えた。
夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯の膳《ぜん》に着いた。しかし箸《はし》を動かす間《ま》も泥棒の話は忘れなかった。御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。
「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」と御米が宗助をやり込めた。
「なに、宅なんぞへ這入《はい》る気遣《きづかい》はないから大丈夫だ」と宗助も口の減らない返事をした。
そこへ清が突然台所から顔を出して、
「この間|拵《こしら》えた旦那様の外套《マント》でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御宅《おうち》でなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」と真面目《まじめ》に悦《よろこび》の言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶《あいさつ》に窮《きゅう》した。
食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。蒔絵《まきえ》ではあるが、ただ黒地に亀甲形《きっこうがた》を金《きん》で置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。御米は唐桟《とうざん》の風呂敷《ふろしき》を出してそれを包《くる》んだ。風呂敷が少し小さいので、四隅《よすみ》を対《むこ》う同志|繋《つな》いで、真中にこま結びを二つ拵《こしら》えた。宗助がそれを提《さ》げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。
座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上《のぼ》って、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木《かなめ》を奇麗《きれい》に植えつけた垣に沿うて門内に入った。
家《いえ》の内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。摺硝子《すりガラス》の戸が閉《た》ててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルが利《き》かないと見えて誰も出て来なかった。宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。そこにも摺硝子の嵌《は》まった腰障子《こししょうじ》が二枚閉ててあった。中では器物を取り扱う音がした。宗助は戸を開けて、瓦斯七輪《ガスしちりん》を置いた板の間に蹲踞《しゃが》んでいる下女に挨拶《あいさつ》をした。
「これはこちらのでしょう。今朝|私《わたし》の家《うち》の裏に落ちていましたから持って来ました」と云いながら、文庫を出した。
下女は「そうでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働《なかばたらき》らしい女を呼び出した。そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。入《い》れ違《ちがえ》に、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしい揃《そろい》のリボンを懸《か》けた子がいっしょに馳《か》けて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔を眺《なが》めながら、泥棒よと耳語《ささやき》やった。宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。
「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、何《な》にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、
「どうぞ御通り下さい」と丁寧《ていねい》に頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。ところへ主人が自分で出て来た。
主人は予想通り血色の好い下膨《しもぶくれ》の福相《ふくそう》を具《そな》えていたが、御米の云ったように髭《ひげ》のない男ではなかった。鼻の下に短
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